秋田季穀

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秋田 季穀(あきた すえつぐ、生年不詳 - 嘉永6年(1853年3月26日)は、江戸時代後期の旗本。通称は左近中務、のち淡路守。官職は浦賀奉行、御小姓組番頭、御書院番頭などを歴任した。子に秋田季瞱

秋田家は、三春藩二代藩主秋田盛季の弟・秋田季久を祖とする旗本家で、知行高は5000石。江戸屋敷は築地本願寺西側に所在した[1]

文化元年(1804年)3月、六代当主秋田季済(内膳)の養子となり、家督を継ぐ[2]。同4年(1807年)には駿府城加番を命ぜられた[3]

文政年間には寄合に列し、火事場見廻役や定火消役を歴任。文政12年(1829年)12月12日には小普請組支配に転じ、天保2年(1831年)9月24日に浦賀奉行に任ぜられた[3]

その後、天保8年(1837年)10月8日に御小姓組番頭(二番組)となり、同年12月に淡路守の称号を与えられた[4]

さらに天保10年(1839年)9月10日、西丸御書院番頭(三番組)に転じ、西丸造営に際して百五十両を献じ、時服を拝領した[5]

弘化4年(1847年)には子の秋田帯刀が中奥小姓に召し出され、家職を継いだ。嘉永6年(1853年)3月26日に死去した。

人物

秋田季穀は旗本中でも文化人として知られ、文政期には俳句や詩歌に親しんだ。文政4年(1821年)には「唐詩の 吟をも ききぬ わたり鳥」という句を詠み、号を「雛古」と称した記録がある[1]

また囲碁を嗜み、天保9年(1838年)1月22日には築地の秋田邸で安井算知本因坊秀和の対局を催すなど、碁界との交流も深かった[6]。 家紋は「檜扇に違い鷹の羽」。

歴任

脚注

参考文献

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