織田信長に近侍し、信長の弓を預かる御弓衆を務めたと伝えられる。また、尾張国中中村の代官であった。
稲熊の娘は豊臣秀吉とほぼ同年代であり、後に土屋知貞の養母となった人物である。知貞は、養母から直接聞いた話をもとに『太閤素性記』を著したとされる。同書第五条の注には、「中中村ノ代官稲熊助右衛門ト云う者、信長公ノ弓ヲ預ル、彼娘、秀吉前後ノ年ナリ、其娘、予ガ養母ナリ、常ニ是ヲ物語ル」と記されており、稲熊家が秀吉と同世代の当事者的記憶を伝えていたことが示されている。
この記述については、叙述に誇張があるとして慎重視する研究者もいる一方で、秀吉と同時代・同地域の人物からの口承である点を評価し、一定の史料的価値を認める見解もある。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、尾張国は信長の次男・織田信雄が相続した。信雄は旧来の家臣・寺社の所領を一旦安堵したのち、翌天正11年(1583年)8月に検地を実施している。その際に作成された『織田信雄分限帳』には、瑞穂区中根町域の知行として「弍百貫文 中根ノ郷 稲熊助右衛門」と記されており、同一人物かは不明だが、稲熊助右衛門の名が確認できる。