穐田弘志
日本陸軍の軍人
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略歴
岡山県岡山市出身[1][2](福岡県とも)。広島陸軍幼年学校を経て[2]1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を優等卒業し[2]、騎兵第4連隊附となる。陸軍騎兵学校も優等卒業し、陸士教官を経て陸大に入学。卒業後は原隊復帰したが、日中戦争勃発後は北支那方面軍参謀。駐独武官輔佐官在任中の1940年12月から、山下奉文陸軍中将を団長とする独伊軍事使節団に随行し、ドイツでの新兵器開発状況について視察した。帰国後は参謀本部ドイツ班長。独ソ戦直前、駐日武官のアルフレート・クレッチマー大佐にソ連軍の情報を渡した疑いが当時武官輔佐官のフリッツ=ユリウス・フォン・ペータースドルフ中佐の証言にあり、のち極東国際軍事裁判では「一度だけソ連軍の動向について尋ねられたことがあったためロシア班に持ち込んだものの、確証が持てないため「よく分からない」と回答した」と答弁している[3]。真珠湾攻撃の翌日には、攻撃成功の第一報をクレッチマー大佐に伝えた。
1944年(昭和19年)より南方戦線に転じ、第7飛行団長を経て南方軍参謀。1945年1月に広州の第23軍高級参謀。4月より内地に転じ、九州の第16方面軍高級参謀として福岡で終戦を迎えた。しかし大橋吉夫少佐らとともになおも抗戦継続を主張し、8月16日ないし17日、二日市温泉の延寿館にて陸軍中野学校出身者らを集め遊撃作戦計画を行わせると同時に、物資の秘匿確保を命じ、兵站施設に自由に出入りできるよう方面軍司令官命令書を渡して兵と車両をあてがったが、ほどなく立ち消えとなった[4][5]。ともに指示した大橋少佐は、「司令部は完全に手を上げてしまった」「オレたちは騙されていた」と言い訳めいた事を並べ立てていたという[6]。
その後、いわゆる「九州大学生体解剖事件」に関与したとして戦犯容疑で起訴され、GHQによる裁判で「終身刑」を言い渡され、巣鴨プリズンにて服役。
1957年春に出所後は帝国書院に勤務を経て[7]名鉄航空サービス(現:名鉄ワールドトランスポート)取締役・営業部長[8]。1965年ごろから脳血栓症により体調を崩して退職し[9]、翌年9月より一人娘の嫁ぎ先である名古屋に転居[10]、以後療養生活を送っていたが、1969年(昭和44年)2月28日早朝に死去した[2]。66歳没。
年譜
- 1922年(大正11年):陸軍士官学校予科卒業、騎兵第4連隊附
- 1924年(大正13年)
- 7月18日:陸軍士官学校本科卒業(7番/330名)
- 10月25日:任騎兵少尉
- 1927年(昭和2年)10月27日:騎兵中尉
- 1930年(昭和5年)8月1日:陸士馬術教官[11]
- 1931年(昭和6年)12月12日:陸軍大学校入校
- 1933年(昭和8年)3月18日:騎兵大尉[1]
- 1934年(昭和9年)11月28日:陸大卒業、騎兵第4連隊中隊長[1]
- 1936年(昭和11年)8月1日:陸大研究部主事兼兵学教官[12]
- 1937年(昭和12年):北支那方面軍第三課参謀[13]
- 1940年(昭和15年)4月6日:駐独武官輔佐官
- 1941年(昭和16年)3月14日:参謀本部第二部ドイツ班長兼陸軍大学校教官
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)