竇易直
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明経に及第し、秘書省校書郎となった。さらに書判の試験に合格し、藍田県尉に任じられた。右司郎中・兵部郎中・吏部郎中を歴任した。元和6年(811年)、御史中丞に転じ、緋魚袋を賜った。元和8年(813年)、給事中となった。9月、陝虢都防禦観察使として出向した。入朝して京兆尹となった。万年県尉の韓晤が不正に財産を蓄えていた事件が発覚し、易直は京兆府司録参軍の韋正晤に命じて韓晤を尋問させ、不正に得た財産30万を暴いた。憲宗がさらに取り調べさせると、韓晤は300万の資産を隠していた[3][2]。元和12年(817年)、易直は罪に問われて金州刺史に左遷された[4]。元和13年(818年)6月、宣州刺史・宣歙都団練観察等使に転じた[5][2]。元和14年(819年)、潤州刺史・浙江西道都団練観察等使に転じた[6]。
長慶2年(822年)7月、汴州の将の李㝏が宣武軍節度使の李愿を追放すると、易直はこれを奏聞し、官物を出して宣武軍に褒美を出すよう求めようとした。ある人が名分の立たない褒賞を出しては、かえって患難を生じる恐れがあると諫めたので、取りやめた。ときに長江・淮水流域で旱魃が起こり、水位が低下して、運河交通が不可能になった。浙西の将の王国清が停泊した船舶の物資略奪を目的として、州兵を扇動して反乱を計画した。事前に密告する者があったため、易直は王国清を収監した。王国清の仲間たち数千は王国清の身柄を奪回しようと起兵した。易直は楼に登って、反乱兵を殺した者には一人あたり10万の褒美を与えると呼ばわったので、人々は喜んで戈をさかさまにして反乱兵を討った。王国清ら300人あまりはみな斬られた。9月、長安に召還されて、吏部侍郎となった。11月、戸部侍郎に転じ、御史大夫を兼ね、判度支をつとめた。長慶4年(824年)5月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった。門下侍郎に転じ、晋陽郡公に封じられた[5][7]。
宝暦元年(825年)7月、判度支を退任した。大和2年(828年)10月、宰相から退任し、検校尚書左僕射・同平章事・襄州刺史・山南東道節度使として出向した。大和5年(831年)、入朝して尚書左僕射となり、判太常寺事を兼ねた。11月、検校司空・鳳翔尹・鳳翔隴右節度使に転じた。大和6年(832年)、病のため長安への召還を求めた。大和7年(833年)4月、死去した。司徒の位を追贈された。諡は恭恵といった[5][7]。