立岩和紙
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立岩和紙(たていわわし)は、1760年頃から長野県小県郡長和町立岩地区で生産されてきた手漉き和紙である。[1]長和町の指定文化財に指定されている。[2]
およそ300年の歴史を持ち、農家らにより冬季の副業として製造されたことに始まる。主な用途は障子紙であった。[1]しかし、1977年(昭和52年)に一度途絶えた。
1979年(昭和54年)に立岩地区の有志により「立岩和紙保存会」が発足。その後、町(旧長門町)により1984年(昭和59年)に工房を備えた「信州・立岩和紙の里(ふるさとセンター)」が建設され、のちに体験館を併設。現在まで、職人による和紙制作や、紙漉き体験事業などを通じて伝統の継承が図られている。
立岩和紙の製造が一度途絶える前(1977年以前)に使用されていたとされている原料・材料
- コウゾ(楮) 産地:長和町、群馬県など
- トロロアオイ - アオイ科トロロアオイ属の植物。根の部分から紙漉きで繊維同士を接着させるのに必須の「ネリ」と呼ばれるとろみが抽出される。
- 桑皮
- パルプ
- など。
現在使用されている原料・材料
- コウゾ(楮) 地元産、外国産
- 化学粘材
製造工程
伝統的な立岩和紙の製造過程は以下の通りである。
①黒皮むき - 乾燥し、保管してあるコウゾ(楮)を水に戻し、コウゾの表皮を一つひとつ丁寧に剝く作業を行う。
②煮熟 - コウゾの皮を大きな釜で煮て、繊維を柔らかくする。同時に灰汁(あく)やゴミを取り除く。
③さらし - 煮た後のコウゾを水にさらし、流水により灰汁をぬく。昔は立岩地区を流れる依田川で行われていた。
④漂白/塩素漂白 - 次亜塩素酸ナトリウムと酢酸を用いて漂白を行うことで真っ白な障子紙の生産が行われていた。
※ 現在(2025年~)では漂白を行わず未晒し(生成り)の和紙が作られている。
⑤チリ取り、ごみ取り - わずかに残る表皮やチリなどを水にさらしながら手作業で取り除く。
⑥打解(だかい)/叩き - 木槌等で叩いて繊維をほぐし、細かく分解する工程。これにより綿のような柔らかな繊維状になる。現在では打解機を用いて打つ。
⑦撹拌、ほぐし - ビーターと呼ばれる機械を用いて、叩いたコウゾをほぐす。立岩和紙の里ではホーレンダービーダーを使用。
⑧漉く(紙漉き/抄紙) - 漉き舟に水、コウゾ繊維、粘材を入れ、簀桁(すけた)という伝統道具を用いて和紙を作る。一枚ずつ和紙を作り、紙床板(しといた)に重ねていく。
⑨圧搾 - 漉き重ねた和紙を圧搾機を用いて、ゆっくりと半日かけてしぼる。
⑩乾燥 - 圧搾を終えることで、1枚ずつはがすことができる。乾燥台に刷毛ではりつけて乾燥させ、1枚1枚仕上げる。現在では火力乾燥機を用いて乾かす。
- これらを全て手作業で行っているため、乾燥までに最低でも一週間を要する。
立岩和紙のあゆみ
製法:江戸期の手作業 → 大正期に火力乾燥・機械化 → 昭和期に漂白・ビーター導入
| 時代区分 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 江戸時代 | 宝永3年(1760) | 宝永指出帳
→農閑期の副業として行っていた |
| 明和 5 年(1768) | 信州佐久・小県郡中山道往還筋村々申渡請書
→当時の紙原料であるコウゾ栽培の様子と、これを 奨励した政策を掲載 | |
| 寛政元年(1789) | 両角文書(長門町有坂)
→依田久保各村々の紙漉き戸数、紙漉定書箇条が掲 載 →長瀬・立岩がその中心であった | |
| 明治時代 | 明治初期
(1868~1870 ご ろ) |
上小地方※1 の和紙の用途:蚕卵台紙、中折紙、半紙
等 |
| 明治 13~14 年
(1880~81) |
長野県町村誌
→半紙・中折紙の製造記録在り | |
| 明治~大正初期
(1868~1926 ごろ) |
蚕卵台紙が盛んに
→最盛期には全国第1位にまで生産量をあげた →上小地方での有力な産業に | |
| 明治 17 年(1884) | 「長瀬村蚕卵原紙改良会社」設立 | |
| 明治 31 年(1898) | 「長瀬原紙改良合資会社」と会社組織にした | |
| 明治 44 年(1911) | 「有限会社長瀬蚕卵原紙改良会社」と組織変更
→上小蚕卵台紙の主産地として発展 | |
| 大正時代 | 大正~昭和 30 年代
(1912~1955 ご ろ) |
上小地方の特産品に |
| 大正 6 年(1917) | A氏が紙漉き改善のために内山・山梨など県内外で視察を行った | |
| 大正9年(1920) | B氏が火力乾燥機を用い、大判(2尺×6尺)を最初に漉いた | |
| 大正11年(1922) | C氏、D氏などをはじめ、これ以降の開業者が火力乾燥機を用い始めた | |
| 大正12年頃(1937) | 一束(障子6本張り36枚) 7~8銭ほど | |
| 大正13年(1924) | A氏ら渡伯移民となる
→この影響で、下記の紙工業組合の組織が遅れる | |
| 昭和時代 | 昭和7(1932)年11月 | A氏を中心に紙工業組合の組織化
→県の特産課の指導監督を取得や助成等も受けやすくなる |
| 不明 | 「立岩製紙工業組合」を組織整備
→当組合は国・県の和紙工業組合に加盟、その傘下となる | |
| 不明 | 「立岩和紙工業施設組合」
→手漉紙工業の改良発展を図る目的で設立 →施設設備の近代化、共通化、質の均一化、増産化を図った | |
| 不明 | 「立岩紙統制連合」
→「長野県手漉紙統制組合」「日本和紙統制株式会社」の傘下に →組合員の福利増進のため製紙用原料、材料、薬品の購入及び製品の均一化。有利に販売を行うように | |
| 昭和23年(1948) | 「立岩和紙協同組合」に組織変更 | |
| 昭和45年(1970) | 「立岩和紙協同組合」解散 | |
| 昭和52年(1977) | 立岩和紙製造が途絶える |
※1 上小地方:上田地域。長野県東信地方の上田市を中心とした地域を指す。上田市、東御市、小県郡(長和町、青木村)付近の地域である。
立岩和紙の現在
伝統的な手法での和紙製作や紙漉き体験事業、販売を行いつつ、保存活動や展示、普及活動が行われている。普及活動は地域外にも、大学など幅広い協力者がいる。
- 信州立岩和紙の里(ふるさとセンター) - 信州立岩和紙の里では、はがき、うちわ等の紙漉き体験を実施している。体験場の規模としては日本最大級の人数(250人)が同時に紙漉き体験を行うことが可能であるため、[4]修学旅行等の団体客も受け入れることが可能である。
- 立岩和紙保存会 - 立岩地区の有志で活動している立岩和紙保存会は、地元産コウゾ(楮)の栽培、管理、収穫などを行う。冬に行われるコウゾの収穫や皮むきには長和町の小学生も参加し、卒業証書も小学生自身が紙漉きを行い制作する。[5]
- 紙漉きの伝承 - 2022年(令和4年) 、2023年(令和5年)に、長和町が立岩和紙の保存、伝承、PR 活動などを目的に地域おこし協力隊の募集を実施。職人となる人材確保に努めた。