立石得十郎は長崎に生まれ、米田家の出身とされる。若くしてオランダ語を学び、弘化4年(1847年)にはすでにオランダ通詞として小通詞末席に名を連ねていた。幕府の対外政策が緊張を増す中、得十郎は通詞として長崎奉行所の命により働き、外国船応接の重要任務にあたった。
嘉永6年(1853年)のペリー来航時には、長崎奉行所の堀達之助に従い、米国軍艦サスケハナ号へ乗り込んで応接を行っている。この際、得十郎はオランダ語を介した通訳を担当し、日米間の初期交渉に参加した数少ない通詞の一人となった。
その後、得十郎は甥の斧次郎を養子とし、のちに自らの語学経験を踏まえて斧次郎の英語教育に力を注いだ。長崎の学校や、下田の米国領事館(玉泉寺)にまで預けて学ばせたとされる。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のため派遣された万延元年遣米使節において、立石得十郎は二等通詞として随行した。得十郎はこの随行に強い意欲を示し、特に「養子・斧次郎の英語上達の機会を得させたい」と願って運動したことが資料に残る。
使節一行がホワイトハウスを訪問した4月16日、アメリカ大統領より銀メダルを授与された。帰国後に得十郎が幕府に提出した上申には「銀メダル二個」と記されており、これは自身と斧次郎の分を合わせて報告したものと考えられている。また得十郎自身は航海中に船酔いしなかった数少ない日本人の一人であったとの逸話もある。
万延使節の帰国後、得十郎は「外国奉行支配通弁御用頭取」として箱館奉行配下に属したが、元治元年(1864年)6月27日には病気により免職となり、慶応元年(1865年)6月には箱館での通弁御用を辞退している。その後、得十郎は自宅で病死したとされ、同年9月4日、幕府は後任として堀達之助を箱館詰通詞に任命した。
得十郎には、実筆の日記『旧幕使節米航紀行』があり、明治10年(1877年)に外務省へ献納された。同書は万延遣米使節の実態を伝える貴重な史料の一つとして評価されている。
また1850年から1855年まで二期にわたり天文台詰を命じられるなど、語学以外にも幅広い知識を持つ幕臣であった。