立花通栄 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代後期生誕 不詳死没 文政7年(1824年)改名 為之丞(幼名)→通栄(読み:なおまさ→なおちか) 凡例立花通栄時代 江戸時代後期生誕 不詳死没 文政7年(1824年)改名 為之丞(幼名)→通栄(読み:なおまさ→なおちか)別名 織衛(通称)墓所 福厳寺 (柳川市)主君 立花鑑通→鑑寿→鑑賢藩 筑後国柳河藩家老氏族 戸次氏→立花氏父母 父:戸次通孝兄弟 通栄、吉田兼儔、吉、親傳、馬之助妻 酉(立花鑑通の娘)子 5男3女テンプレートを表示 立花 通栄(たちばな なおちか[1])は、江戸時代後期の筑後国柳河藩の家老。柳河藩家老家の一つである立花織衛家の2代目。石高1000石。家格は大組外。『立花織衛家文書目録』掲載系図では吉田兼儔(舎人)の実兄にあたるとしている。 部屋住み時代から藩に勤仕する。安永6年(1777年)に織衛の通称を拝領。安永9年(1780年)に織衛家の家督を相続し、天明元年(1781年)に父・通孝と同様、伯父(通孝の実兄)で藩主の立花鑑通より一字拝領され、諱を通栄とする。 義兄弟の立花寿賰らと豪傑組を組織して、安東省菴以来の藩学の改変や勤倹尚武を唱える藩政改革を行うが、義弟の立花鑑寿に信任された守旧派家老の小野勘解由により、寛政10年(1798年)に寿賰と共に家老職を一時免職される(豪傑崩れ)。その後、家老に復職し立花姓を賜る。 文政5年12月(1823年)に、士中家譜御改を仰せ付けられる[2]。文政7年(1824年)死去。墓所は福岡県柳川市奥州町の福厳寺。 叔父で交代寄合の山名義徳との文書のやりとりが、「立花織衛家文書」に残っている。 脚注 ↑ 読みは初め「なおまさ」。読みを変更した理由は藩主鑑寿の八女、於理(おまさ)と同じ読みになるのを憚ったため ↑ 『柳川古文書館史料目録第18集 立花織衛家文書目録』の8p脚注 参考文献 「三百藩家臣人名事典7」(1998年(平成10年)・新人物往来社) 柳川市史編集委員会『柳川歴史資料集成第三集・柳河藩立花氏分限帳』(福岡県柳川市) 『柳川古文書館史料目録第18集 立花織衛家文書目録』(2008年、九州歴史資料館分館 柳川古文書館) この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles