立象丸

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立象丸(りっしょうまる/りっしゃうまる)は日本海軍の運輸船[1]

立象漢語は『易経』に「聖人立象似尽意」とあり、それが艦名の語源と思われる[2]。 ただ他の古典にも立象の文字が現れ、はっきりとしない[3]

2檣の帆船で[4] 船体は和洋混形だった[3][5]。 乗員は秋田県からの返還時(明治4年11月)で士官相当3名、他12名の計15名[6]、 また同年11月24日の報告で乗員17名の記録がある[7]。 要目等は記録が残っていない[2]

艦歴

元は大阪1867年(慶応3年)に建造された幕府輸送船[1]庄内藩に貸与されていたのを明治元年7月16日(1868年9月2日)に奥羽鎮撫総督の名により[1]秋田藩津軽深浦港で捕獲した[8]。 船は大破していたために秋田藩に保管させ、秋田藩では土崎港に繋留して修理を加えた[8]

明治4年5月(1871年6月から7月)に初めて品海に着、この時点で兵部省に返還とされたが[8]、 秋田藩の必要で土崎港まの1往復した後の返還となった[9]。 6月14日(1871年7月31日)から15日(1871年8月1日)に品海に帰着の予定だったが[9]、 結局10月3日(1871年11月15日)品海に着[10]、 11月に秋田県から返還となった。8日(1871年12月19日)午前10時に品海で受け取りの予定[11]、 13日(1871年12月24日)付で受け取り報告の記録が残る[12]

明治5年1月29日(1872年3月8日)、立象丸は造船局の所轄となった[13][1][14]。 船体の腐朽が激しいために同年中に石川島に陸揚げされ[3]1876年(明治9年)3月27日廃船[15] (除籍)、解体された[1]

船長

  • 長山慶乳(奎乿):明治4年5月(1871年6月から7月)時[9]-明治5年1月29日(1872年3月8日)[16]

脚注

参考文献

関連項目

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