竹俣義秀
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
寛永3年(1626年)、上杉氏家臣で米沢藩士の竹俣房綱の次男として誕生。正保2年(1645年)11月に同藩士である保科主馬貞通の養子となって、家督を相続した。
寛文4年(1664年)に3代藩主・上杉綱勝が急死し、これにともなう米沢藩削減にあたり、藩の存続に尽力した。高家旗本・吉良義央の子・綱憲が米沢藩を相続すると、同年6月にその傳役となり、同年8月に保科正之との同姓を憚り、実家の姓に改姓する。寛文8年(1668年)には江戸家老になり、中条知資らとともに上杉綱憲を補佐し、延宝元年(1673年)8月に300石を加増され、600石を領した。延宝2年(1674年)に江戸で死去した。
なお、長男の義澄は竹俣本家を相続しており、血統上は竹俣当綱の先祖にあたる。また、家統も明治期まで存続し、竹俣西家の当主は「武鑑」では竹俣勘解由としてしばしば登場する。
参考文献
- 『三百藩家臣人名事典 第1巻』新人物往来社、1987年。