竹崎順子
日本の教育者 (1825-1905)
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略歴

肥後国上益城郡津森村(現熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋・矢嶋直明の3女として生まれる。妹に徳富一敬の妻で徳富蘇峰と徳冨蘆花の母親である徳富久子、横井小楠の妻横井つせ子、矢嶋楫子がいる。この姉妹4人は「肥後の猛婦」「四賢婦人」と呼ばれた。
1840年(天保11年)に玉名郡伊倉の竹崎家の養子竹崎茶堂(1812-1877、旧名・木下律次郎[1][2])と結婚する。夫は酒造業を起こすが、米相場に関わり失敗し、1843年(天保14年)に阿蘇郡西村布田で開墾生活を始め、その傍らで竹崎塾を開いて手習いを教えた。1860年(万延元年)に夫の兄木下初太郎が開いた干拓地の経営のために玉名郡横島村(現玉名市横島町)に移住する。
1870年(明治3年)に藩政改革で夫が民政局大属になったので熊本に移住する。夫が日新堂という塾を経営し、順子も15、6名の女生徒を教えた。1877年(明治10年)5月に夫が死去した。1887年(明治20年)10月、海老名弾正の来熊を機にキリスト教の洗礼を受ける。1889年(明治22年)に64歳で熊本女学校の初代舎監になった。1890年(明治23年)に校長の海老名が熊本を去り、後任校長に若い蔵原惟郭が就任すると順子の退職が決まったが、順子を慕う生徒の退学が続いたため再採用となった[3]。1892年(明治24年)に熊本英学校事件が起こり、蔵原は学校を去った。順子は1897年(明治30年)に女学校の校長に就任し、亡くなるまで8年間校長として、学校の運営を基盤を築いた。墓所は熊本市竹崎公園。
