竹本源太夫
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7代目
8代目
(1885年12月18日 - 1973年7月14日)本名は伊藤慶治郎。
三重県四日市で出生、1908年10月に7代目源太夫に入門し、源路太夫として歩み始める。1937年3月に大阪四つ橋文楽座(1945年の大空襲で焼失)にて8代目竹本源太夫を襲名する。


戦後は、文楽も松竹との労働争議で因会(ちなみかい)と桐竹紋十郎・豊竹つばめ太夫・野沢喜左衛門などを主力とする三和会の二派に分裂され、源太夫は三和会に属し、同志と共に苦労を重ねて活躍する。
源太夫の芸風は、所謂、時代物でも艶物でも隔てなく語れる大夫であり、淡交社発行の「四代竹本越路太夫」では「阿古屋でも弁慶(勧進帳)でも、つくらんと語れる美声の人で、最後まで腹は往(い)んで無かった」と紹介されている。若い時には「阿波の鳴門」なども得意とし、美声を存分に発揮して客席の涙を誘うので「鳴門太夫」と囃されたのも逸話になっている。
1955年「蔵前」「千本道行」「櫓(やぐら)お七」「狐火」など十数枚SPレコード(七十八回転)を録音。現在、金沢の
「蓄音機博物館」で所蔵されている。
1957年3月、独立映画撮影所で映画「人形は生きている」に山田五十鈴らと出演。


1959年7月には、京都太秦東映撮影所で「浪花の恋の物語」に三和会で特別出演した。交友関係としては、スズキ株式会社の創始者で初代社長の鈴木道雄氏に贔屓になっており、同氏の趣味である浄瑠璃の稽古の為に、浜松市伝馬町の鈴木氏宅へ度々出向いていた。文楽の普及活動の為、金沢、下呂、名古屋を中心に一般素人への出稽古を多数行っており、往時の活況が窺える。
晩年は体調を崩し、1973年7月14日に大阪府豊能町ときわ台の自宅で死去、行年85歳。

