竹本春太夫
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竹本 春大夫(たけもと はるたゆう)は、義太夫節の太夫。
2代目
3代目
4代目
(生没年不詳)
3代目春太夫の門弟。文政年間に4代目春太夫を襲名。病弱で竹本八十太夫に春太夫の名を譲ったが八十太夫が没後、再び春太夫を名乗る。
通称を「又兵衛」。
代数外
初代竹本八十太夫 → 竹本春太夫(代数外)[2]
四代目竹本咲太夫の門弟で初代竹本八十太夫を名乗り、江戸で出座する。竹本播磨大掾(二代目竹本土佐太夫)に見出され、大坂に伴われ、竹本春太夫を堺にいた四代目竹本春太夫から一代限りで借り受けた。
八十太夫が竹本春太夫を名乗る経緯は、以下の通りである。初代岡太夫の門弟である三代目竹本春太夫は、前名を町太夫といい、その町太夫の名跡を門弟である枡屋又兵衛に名乗らせていた。師三代目春太夫の没後は、三代目竹本重太夫(五代目竹本政太夫)の門弟となり、文政3年(1820年)の因講大帳に「重太夫門弟 堺春太夫」とあることから、襲名披露はしていないものの、枡屋又兵衛が春太夫の四代目を相続していたことが確認できる。しかし、この堺の四代目春太夫は、多病のため、芝居に出ずに、堺に引っ込んでいた。そこで、東京から孫弟子の八十太夫を伴い帰坂した播磨大掾は、堺での芝居では別の名前で出演することを条件に、竹本春太夫の名跡を堺の四代目竹本春太夫から借り受け、八十太夫に名乗らせた[3](この経緯からこの八十太夫の春太夫は代数外とされる)。
「文政八年播磨大掾東京より咲太夫門弟八十太夫を連帰り我門弟として大坂出勤致さす処成共宜敷明名前もなく折柄堺春太夫事出勤もなく引込居らるゝ事故此名前を借受んと人を以て掛合に及びかり受候得共もし堺にて興行有ば外名前にて出勤致候との約定極め其頃播磨大掾の勢ひにて八十太夫事春太夫にて座摩社内芝居へ出勤致す名と云ひ声と云ひ初代春太夫の再来の如く評判宜敷勤められしが天保元年九月尾州名古屋にて死去せられし故名前元との又兵衛へ戻り[2]」
「同八年酉の四月帰坂に付八十太夫を同道にて連帰り宜敷名前有ば改名致させんと存寄有共宜敷名前もと思へ共無之然るに堺住人春太夫事は三代目春太夫の高弟成共一向芝居出勤なく夫故播磨大掾より右名前借に遣し暫らく借受度由乍併堺へ出勤致さば名前を替て参る由約定有て弥借受五月朔日より座摩社内芝居にて前楠昔噺次に粧水絹川堤埴生村の段八十太夫改名して竹本春太夫切に兜軍記琴責の段掛合重忠播磨大掾岩永弥太夫あこや春太夫三弦鶴沢伝吉豊沢兵吉琴小弓鶴沢新十郎[2]」
以上が『増補浄瑠璃大系図』の説明であるが、『義太夫年表 近世篇』によれば、文政6年(1823年)3月、文政7年(1824年)正月、文政8年(1825年)正月の江戸結城座の番付に竹本春太夫が確認できることから[4]、既に江戸では春太夫を名乗っていた(あるいは播磨大掾が八十太夫に名乗らせていた)が、大坂での芝居出演に際し、播磨大掾が堺の四代目竹本春太夫の了解を得た(追認させた)という可能性も考えられる。八十太夫の竹本春太夫襲名披露は、文政8年(1825年)5月 大坂座摩境内『粧水絹川堤』「埴生村の段 切」『壇浦兜軍記』「琴責の段 阿古屋」にて行われ、「琴責の段」は重忠に播磨大掾、岩永に二代目竹本弥太夫が勤め、三味線は鶴澤伝吉(三代目鶴澤文蔵)が弾いた[4]。「名と云ひ声と云ひ初代春太夫の再来の如く」[5]と『増補浄瑠璃大系図』が記したほどの実力者に相応しい披露演目である。翌文政9年(1826年)11月 堺宿院芝居にて座本 町太夫改竹本春太夫 太夫 竹本播磨大掾の芝居があり、『御所桜堀川夜討』「淡路島の段」を語り四代目竹本春太夫を襲名している[4]。これは『増補浄瑠璃大系図』から八十太夫への春太夫名跡の借り受けの返礼に播磨大掾が開いた襲名披露であることがわかる。「十一月十五日より堺宿院芝居にて座本町太夫改竹本春太夫太夫竹本播磨大掾御所桜堀川夜討初段八段返し淡路の段春太夫勤る是名前を借し返礼播磨大掾堺にて名弘め致」[5]前述の約束の通り、八十太夫の春太夫は「堺にては出勤成がたく相休み」[5]となった。この後も、「堺」と「江戸」の春太夫の両名が存在し、江戸の春太夫は諸座で活躍した。江戸の春太夫が堺での出座はできないという約束ではあったが、前述の文政11年(1828年)11月 堺 宿院芝居にて、詳しい経緯は不明であるものの、三代目竹本綱太夫と四代目竹本政太夫が間に入り両春太夫が顔合わせをしたものと推察される。
以降も、諸座で活躍したが、天保2年(1831年)9月20日名古屋にて死去。戒名は松蔭自涼信士。旅の途中であったため、「茶屋町西行当り無縁寺へ葬る石碑を残すなり」と寂しい最期であった[1]。
門弟に四代目豊竹岡太夫がいる。