福岡藩の藩校である修猷館の、初代総受持を務めた竹田定良(梅廬)の長男として生まれる[2]。
1793年(寛永5年)長崎に遊学し、更に京都に上って西依成斎、若槻幾斎らに学ぶ[3]。帰藩して、定良の後を継ぎ、1796年(寛政8年)に修猷館の総受持となり、黒田家の家譜編纂にも携わった[2]。
病気を患い、1799年(寛政11年)から、島村遜、井土周徳、奥山弘道の3名が、輪番で総受持の職を代行することになり、同年に定矩が死去後も、弟である竹田定夫が総受持に就任する1807年(文化4年)まで、その3名で代行している(翌年に井土周徳、翌々年に奥山弘道が死去したため、その後は島村遜のみが代行)[4]。