第一京丸

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第一京丸(だいいちきょうまる、Kyo Maru No.1)は、日本捕鯨船(キャッチャーボート)である。3隻が極洋捕鯨の捕鯨船として建造され、3代目の第一京丸は、極洋から日本共同捕鯨共同船舶に所属した。

建造

第一京丸
初代の第一京丸[1]
基本情報
船種 捕鯨船(キャッチャーボート)
クラス 第一京丸型捕鯨船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 極洋捕鯨
運用者 極洋捕鯨
建造所 鶴見製鉄造船所(現・JFEエンジニアリング鶴見製造所)[2]
母港 東京港/東京都
姉妹船 第二・三・五京丸
建造費 44万円(当時)[2]
船舶番号 44389[3]
信号符字 JDDM[3]
経歴
起工 1937年10月6日[2]
進水 1937年12月21日[3]
竣工 1938年2月9日[3][4]
最後 1945年1月15日 触雷沈没[5][6]
要目
総トン数 340.90トン[2]
純トン数 118トン[7]
垂線間長 40.0m[3]
型幅 8.20m[3]
型深さ 4.30m[3]
主機関 三連成レシプロ機関 1基[2]
推進器 スクリュープロペラ 1軸
出力 960-990IHP[2]
速力 14ノット[2]
1941年10月31日徴用。
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第一京丸
基本情報
艦種 特設掃海艇
艦歴
就役 1941年11月10日(海軍籍に編入時)
佐世保鎮守府部隊第四十一掃海隊/佐世保鎮守府所管
除籍 1945年4月10日
要目
兵装 四十口径三年式八糎高角砲×1門
爆雷
装甲 なし
搭載機 なし
その他 大掃海具×2組
小掃海具×2組
徴用に際し変更された要目のみ表記
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1936年昭和11年)9月9日に創業した極洋捕鯨は南氷洋捕鯨に参入するにあたり、捕鯨母船の極洋丸と共に、キャッチャーボートとして第一京丸から第十一京丸の9隻[注釈 1]の9隻が建造された。京丸の船名の由来は、創業者の山地土佐太郎と同じ高知県出身の漢詩家・宮崎晴瀾の「「」という漢字から「」を取る(=捕る)と京(=今日)という漢字にかえる(=帰る)」という縁起からである[2][8]

第一京丸を含む第二・三・第五京丸の4隻は鶴見製鉄造船所(現・JFEエンジニアリング鶴見製造所)で建造され、第一京丸は1937年(昭和12年)10月6日に起工[2]し、同年12月21日に進水[3]1938年(昭和13年)2月9日に竣工した[3][4]

操業

極洋丸の竣工までの間、第一京丸をはじめとするキャッチャーボートは、出漁練習船として鮎川港を母港に操業しつつ要員の訓練を行った。キャッチャーボート9隻に対し、正砲手は3人のみだったため、極洋捕鯨が創業後に買収した鮎川捕鯨の人脈でノルウェー人砲手を6人雇用した[9]

1938年(昭和13年)10月5日に極洋丸が竣工し[8]10月11日に極洋丸や第一京丸を含むキャッチャーボート9隻からなる船団は神戸港を出航した[9]11月16日午前3時、極洋丸の船団は南緯59度50分 東経104度40分 / 南緯59.833度 東経104.667度 / -59.833; 104.667で操業を開始した[9]。極洋丸の船団は初出漁だったが、1939年(昭和14年)3月18日南緯58度05分 東経110度23分 / 南緯58.083度 東経110.383度 / -58.083; 110.383で操業終了するまでの123日間で[10]シロナガスクジラナガスクジラザトウクジラなどのヒゲクジラシロナガスクジラ換算英語版(BWU)781.5頭とマッコウクジラ67頭を捕獲した[11]

1939年(昭和14年)10月29日、極洋丸とノルウェーから購入した冷凍運搬船興亜丸[12]8月1日に座礁全損した第五京丸[13]を除く8隻の捕鯨船からなる船団は、第2回南氷洋捕鯨に神戸港を出航した[12]。捕鯨砲の砲手は日本人砲手の育成が進み、2名のみノルウェー人だった[14]。極洋丸の船団は、ヒゲクジラBWU787.5頭とマッコウクジラ78頭を捕獲し[11]、興亜丸以外の第一京丸を含む船団は4月5日に帰港した[15]

1940年(昭和15年)10月10日、極洋丸の船団は第3回南氷洋捕鯨に神戸港を出航した。船団は極洋丸と興亜丸に加え、新造の第十二・十三京丸が加わった8隻のキャッチャーボートからなり[16]、捕鯨砲の砲手は全員日本人となった[14]第二次世界大戦の勃発に伴い、欧米各国の出漁が少ない上に好漁だった[14]ことから、船団は戦前の3回で最高となるヒゲクジラBWU1,026.4頭、マッコウクジラ55頭を捕獲し[11]1941年(昭和16年)3月29日に帰航した[13][17]

徴用・撃沈

1941年(昭和16年)10月31日、第一京丸は大日本帝国海軍に徴用され[6]11月10日に入籍して佐世保鎮守府所管となった。11月17日から山口県下関市彦島林兼造船所で改装工事を行う。11月20日、同じく徴用された姉妹船の第三京丸と第四十一掃海隊を編成し、11月26日に改装を完了して彦島を出航。2隻は11月27日に佐世保港に到着し、11月30日まで軍需品を搭載して出動準備を整えた[18]太平洋戦争大東亜戦争)勃発後の12月10日、第一・三京丸は特設掃海艇に区分され、1942年(昭和17年)1月14日、第四十一掃海隊は基隆港に入港し、翌1月15日に第四十一掃海隊は佐世保鎮守府部隊佐世保防備戦隊に編入された。1月17日高雄港に向かい、1月22日カムラン湾に到着。アナンバス諸島を往復し、2月17日、第一京丸はシンガポール港に入港。2月25日に第四十一掃海隊は第一南遣艦隊第十二特別根拠地隊に編入された。

第一京丸はシンガポール港を拠点に、掃海や潜水艦掃討、船団護衛などの任務に就いた。1943年(昭和18年)2月26日に僚船の第三京丸が触雷沈没した[19]ため、6月15日に日本海洋漁業統制(現・ニッスイ)のトロール船から徴傭された麗水丸(219.05総トン)[20]が編入された[21]1944年(昭和19年)12月25日に麗水丸が北緯03度18分 東経99度42分 / 北緯3.300度 東経99.700度 / 3.300; 99.700イギリス海軍T級潜水艦トレンチャントテラピン英語版の砲撃で撃沈された。そして第一京丸も1945年(昭和20年)1月13日機帆船船団を護衛してシンガポール港を出航しペナン島に向かったが、1月15日17時頃、北緯05度18分 東経100度20分 / 北緯5.300度 東経100.333度 / 5.300; 100.333のペナン南水道の入口で触雷し、40分後に船尾から沈没した[5]

掃海艇長

  1. 眞方信男 予備中尉/予備大尉/大尉:1941年11月10日[22] -

2代目

第一京丸[注釈 2]
2代目の第一京丸[23]
基本情報
船種 捕鯨船(キャッチャーボート)
クラス 第一京丸型捕鯨船
船籍 日本の旗 日本
所有者 極洋捕鯨
運用者 極洋捕鯨
建造所 川崎重工業艦船工場[24]
母港 東京港/東京都
姉妹船 第二・三・五京丸
船舶番号 58212[25]
信号符字 JJKE[25]
経歴
起工 1946年4月1日[24]
進水 1946年6月17日[24]
竣工 1946年9月2日[26][27]
引退 1965年10月[26][28]
要目
総トン数 285.30トン[24][26][29]
純トン数 83.80トン[24]
全長 41.40m[24]
垂線間長 38.00m[24]
型幅 7.20m[24]
型深さ 4.00m[24]
満載喫水 3.404m(平均)[24]
主機関 23号乙8型ディーゼル機関 1基[24]
推進器 スクリュープロペラ 1軸
出力 1,050BHP[25]
最大速力 14.1ノット[24]
航海速力 12.5ノット[25]
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建造

終戦後、捕鯨母船の極洋丸をはじめ、キャッチャーボートの大半を失った[注釈 3][31]極洋捕鯨は、会社経理応急措置法過度経済力集中排除法の適用を受けたが、すぐに解除されたので、木造捕鯨船による沿岸捕鯨と以西底曳網漁業で復興を図った[32]1946年(昭和21年)、極洋捕鯨は日本近海および南氷洋両用[24]の新たな捕鯨船として、第一京丸と第二京丸、第三・第五・第六京丸の5隻の鋼製キャッチャーボートを川崎重工業艦船工場(現・川崎重工業船舶海洋ディビジョン神戸工場)と播磨造船所(現・ジャパン マリンユナイテッド)に発注した[23]。第一京丸は姉妹船の第二京丸と共に、8月24日に川崎重工業艦船工場で引き渡され、9月2日に竣工した[27]。竣工と同時にGHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-K182の管理番号を与えられた[25]

船体は溶接を用いて重量軽減を図り、氷海の航行と鯨類曳航の際の圧力に耐えられるよう中間肋骨を取り付けた。上構も鋼鉄製で、前方に木製の船橋を設けた。見張台は鋼製骨組みに帆布を張り、船橋との間に伝声管を設けて連絡を容易にした[33]。主機は、戦時中に量産された艦本式ディーゼルである23号乙8型ディーゼルエンジンを搭載した[24]

操業

竣工後、第一京丸を含む5隻のキャッチャーボートは戦前と同じ練習船制度を用いて、沿岸捕鯨に従事した[34]

1947年(昭和22年)、極洋捕鯨は日本水産(現・ニッスイ)と共に、旧海軍の輸十三号(元・第十三号輸送艦)を用いた小笠原諸島近海での捕鯨事業を行うこととなった。3月2日、第一京丸は第三京丸と共に捕鯨船団に参加し、3月2日に出航[27][注釈 4]し、5月25日までにシロナガスクジラ2頭とイワシクジラ49頭、マッコウクジラ80頭を捕獲した[36]。6月24日には、終戦直前の1945年8月11日に爆撃を避け自沈した第十五京丸の浮揚に成功し[27]、極洋捕鯨の鋼製キャッチャーボートは6隻となった。

1950年(昭和25年)の第5次小笠原捕鯨は極洋捕鯨の単独事業となり、ばいかる丸を母船に第二京丸を除く4隻[注釈 5]は3月17日から6月9日まで操業[35]し、イワシクジラ243頭とマッコウクジラ63頭を捕獲した[36]

1951年(昭和26年)、極洋捕鯨は国際捕鯨委員会(IWC)の管理外であるマッコウクジラ捕鯨を南太平洋で行うこととなった。10月1日、ばいかる丸と第一・三・五・六・十五京丸は大阪港を出航し[37][38]、11月16日から翌1952年(昭和27年)2月20日までの97日間でマッコウクジラ222頭を捕獲[39]し、3月31日に帰航した。しかし目標の捕獲頭数に達しなかったうえに、出航時に約16万円/tだったマッコウ鯨油の価格が帰航時には約4万円/tに暴落し、極洋捕鯨の再建にとって大きな痛手となった[38]

1957年(昭和32年)、極洋捕鯨は台湾祥徳漁業公司との共同経営で、台湾最南端の鵝鑾鼻(ガランピー)沖の捕鯨事業を開始した。第一京丸は第1回操業の捕鯨船に選ばれ、3月11日から鵝鑾鼻で操業を開始した。台湾での捕鯨事業は、翌1958年(昭和33年)の第2回操業から第三京丸が引き継いだが、1959年(昭和34年)の第3回操業で終了した[40]

1965年(昭和40年)、IWCの会議で総捕獲枠が前年より1,000頭減少の3,500頭まで削減[41]され、ザトウクジラ1年、シロナガスクジラ5年の禁漁が決まった。これに伴い、第二極洋丸の船団が南氷洋捕鯨から撤退し翌1966年(昭和41年)から北洋海域(太平洋最北部・オホーツク海ベーリング海)の捕鯨(北洋捕鯨)に従事することになった。極洋捕鯨は、それまで北洋捕鯨に従事していた極洋丸をはじめ、第一京丸などキャッチャーボート15隻とタンカー2隻、冷凍工船1隻などの不稼働船を抱えることとなり、1965年(昭和40年)から売却を始めた[42]。第一京丸は、1965年10月に第三京丸と共に引退し売却された[26][28]

3代目

脚注

参考文献

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