第一大邦丸事件

1953年に済州島沖で韓国海軍が日本漁船を銃撃した事件 From Wikipedia, the free encyclopedia

第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、韓国海軍による日本民間人殺害事件。

済州島の位置

朝鮮戦争中の1953年2月4日公海上(同船船長の日本での国会証言によれば済州島沖22カイリの農林漁区第284漁区と思われる海域。韓国側の主張では済州島沖3カイリ以内ないし1カイリとされる[1]。)で操業中であった福岡漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(当時34歳)が被弾して死亡した事件である。

背景

1952年1月19日、韓国は海洋資源の保護のためとして李承晩ライン(略称:李ライン)を設定し、海洋主権(後に主権という語については避けるようになる[2])を行使するとした[3][4]。なお、当時は日韓基本条約はまだ締結されていず、代表部を置いて公使を交わしていた程度で、正式の国交が樹立されておらず、国交正常化前と評される状態であった。この当時、既に国連軍が防衛上の必要から国際防衛水域(通称:クラークラインまたはマッカーサーライン。略称:ク・ライン、マ・ライン)を広範に設定していたが、李ラインは場所によってはこれを越えていた。

状況・経緯

なお、以下はあくまで、拿捕された漁船船員・船長らの主張に基づく内容であることに注意を要する。

拿捕されるまで

1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。

同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

取調べが始まるまで

同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に略奪された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の『高医院』に収容された。しかし『高医院』とは名ばかりの医院で、病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。

船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。

しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。

帰国まで

2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。

取調べで韓国側は拿捕地点は翰林より9マイル付近であったと主張。日本人船員側が昌運号のコンパスの自差及び速力の矛盾を指摘したところ、韓国側に両者の主張の中間をとろうと言われて、13マイル付近を拿捕位置として捺印させられた。同時期に取調べを受けていた第二大邦丸の通信士によると、拿捕地点は翰林より30マイルである。

2月12日に一行は済州に送られる事になったが、誰も漁撈長の遺骨を持ってきていなかったため、遺骨を取りに行くことを要求したが、警察署長に拒否された。船員が移送用の車に乗ることを強硬に拒否したところ、1人だけ残して、次の日に運ぶ事を認められ、残りの船員は車で済州へ運ばれた。

同日23時頃、船員は済州警察査察課第二係に引き渡され、食事を与えられずにそのまま留置所に入れられた。この留置所も4畳ほどで、しかも他の韓国人と一緒に入れられていた。この留置所では粗末ではあるが食事は与えられた。

済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので国際法上認められていないと反論した。クラーク・ライン侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた(実際には、これはあくまで噂であり、漁船員らは単にそれをあてにして出漁していたことが、当時報道されている[5]。なお、後に日本政府側もこの漁業者側の主張に乗っているが、事件発生間もない時期に、読売新聞は、クラーク・ライン設定以来、日本側は国連軍側の解釈に同調しておらず「国連軍の作戦に支障ない出漁してもよいはず」との見解をとっているとの報道をしている[6]。)。この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。

この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした(国会証言では、船長は済州島西方9カイリで事件が発生したことにさせられたとしている[1]。)。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。

2月15日午前7時頃に、船員は外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだから。あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれ」との旨の挨拶を受けた。同日13時に船体の受け渡しがあり、同日済州を出航、アメリカ海軍フリゲートエバンズビル」に護衛されつつ、2月17日17時半頃に佐世保に入港、2月21日に佐世保を出航して、2月22日7時に福岡に帰港した。

帰国後

2月23日、日本国政府は事件発生を受けて李承晩ラインの不承認を改めて表明したが、韓国側に黙殺された。翌年にかけて韓国警備艇による拿捕事件が頻発した[7]

問題点

  • 当時は、旧来の領海3カイリ説が時代遅れとみなされるようになり、12カイリや14カイリ、一部の中南米の国は領海の名で今日のEEZの考えにつながった200カイリを主張するケースもあった。また、漁業資源保護のためであれば、管理権を行使できるという考え方も現れ、ソ連やアメリカは北洋漁場にそれに基づく宣言をしていた。また、大陸棚については広く資源の管理権を主張できるという考え方も生まれていた。漁業立国を目指す日本は、できるだけ自由な公海が広い方が有利と当時は考えていたため、日本政府は、領海以外の考え方は認めず、領海についても韓国は3カイリ以外は宣言していないので韓国は領海3カイリしか主張できないという見解であった。当時の日本における国際法の主流派の横田喜三郎は、全般的に伝統的主張の立場で、この日本政府の主張を支持した。[2]
  • 日本側主張によれば、民間船は無警告で銃撃されたとする。韓国側主張によれば、朝鮮戦争終結前の厳戒中に、密漁などの不法行為取り締まりのための停戦調査に応じようともせずに逃走を図ったため、撃ったとする。なお、国際法学者の横田は、もし韓国領海内で日本漁船が韓国の停戦命令を拒否・無視したのであれば、韓国の発砲措置に文句はいえないとしている[2]
  • 船長の帰国直後の国会陳述では、韓国の取調では事件発生は韓国側の昌運丸船長の証言をもとに領海9カイリ(新聞報道では3マイル。カイリは英語でnautical mileで、船舶・航空機ではカイリを単にマイルと呼ぶことが多い)の地点であったと言われたが、連行される大邦丸は3時間かかって港の翰林面に着いたことから18~20カイリはあったはずと主張したところ、間をとった距離で調書に署名させられたとしている[8]。船長・乗組員らは佐世保駐在朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッジ少将はちょうど解任の頃に本件にかかわることとなったがアメリカの韓国駐在武官とともに韓国からの両大邦丸の解放に尽力、船長・乗組員らは2月19日帰国、船体も返還された。その翌日の日本側報道は、事件発生を沖10カイリ(原文10マイル。航海・航空では当時カイリをマイルと表現することが多かった。)地点として李ラインや国連防衛ライン内の事件として報じているものがある[9]。また、政府も外務委員会において防衛ライン内で起こった事件と答弁している[10]。韓国側の金公使は3マイル内と言ったり、1マイルと言ったり、発言が揺れている。日本側でも、事件発生場所については水掛け論になるだけとして議論を避けようとする論調も多い[11]
  • 大邦丸が釈放されるとき、佐世保基地内の国連軍防衛艦隊司令官オールセン少将は、国連防衛ライン内での発生事件とみていたのか、今後は防衛ラインに入らないことを佐世保海上保安部長・大邦水産社長に申し渡した[12][13]。結果、日本漁船の国連防衛ライン内での操業は国連軍から明確に禁止されたものとみられることになった[12][13]
  • 当初より明確な軍事行為目的を持った活動の中で起こったとする主張がある。日本の衆議院外務委員会連合審査会によると、韓国船2隻には乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していた。当時の駐日韓国公使が韓国が戦争にあっている中で、その戦争で日本は利益を受けていると言ったことを捉えて、日本側民間団体からは、そのような反日感情の中で起こした事件ではないのかとの非難の声もあった。ただし、漁船員の語る証言に基づいても、魚が取れるかと聞いてきたり、漁網を引き上げている段階で行動に移っていることから、このときの韓国船側の目的はあくまで密漁取り締まりの可能性が高い。
  • 全日本海員組合は日本漁船員側を支持、正当に解決されなければ、在韓国連軍物資や韓国援助物資の輸送に協力せず、船舶の就航拒否や日本人組合員の総引揚などで対抗すると発表した[14][15]
  • 乗組員らの証言する拿捕後の取調べ時の非人道的な取り扱い。(食料を与えない、朝鮮戦争による戦場での前線時の感覚なのか、怪我人がもはや助からないとみるや医者がろくな手当をしないなど。)
  • 当時の日本の漁業関係者間では収益至上主義の気風が強く、領海や資源保護・経済水域について考え方の相違があったとはいえ、相手国からすれば密漁や領海侵犯とみられかねない行為であっても無理してでも侵す面があった。駐日韓国代表部の金公使によれば日本漁船は李ライン、ク・ラインばかりか韓国領海も繰返し侵犯していたとする[16]。1953年5月13日段階で、漁船捕獲数514隻(内帰還297隻)、未帰還人員539名にのぼり、その内、韓国以外でも台湾56隻(未帰還31隻、未帰還人員22人。以下同じ)、中国110隻(109隻、380人)、ソ連203隻(62隻、95人)に上っていた[17]
  • 李承晩ラインと竹島問題では合計で船328隻が拿捕され、拿捕時に44名が死傷し、3929人が抑留されていた。
  • 当時、日本には朝鮮半島から朝鮮戦争や徴兵制を避け、あるいは生活苦から日本に密航して来る者も多数いた[18]。一方、日本は終戦直後に食糧難で朝鮮半島出身者の帰国を推し進めていたが、その感覚がそのまま続いていて、戦後の密入国者ばかりか、朝鮮半島出身者で戦前・戦中から日本に合法的に居た者でさえ、日本で犯罪を犯して刑務所にいた者を刑期が満了しても釈放せずに、「凶悪犯罪」「軽罪であっても累犯で悪質」といった理由を付けて、強制退去処分の対象とし、今度はそのまま収容所に収監し続け、韓国側に引取るよう要求していた[19]。戦後の日本密入国者が北朝鮮に行くことを嫌う韓国側は当初引取ることにやぶさかではなかったが、日本側が戦前から合法居住していた刑余者まで引取ることを要求した為、韓国側は態度を硬化、刑期満了した戦前戦中からの居住者はまず日本で国内釈放し、後は本人の自由意思に任せるべきだとした。韓国側は、日本密入国者の引取自体を拒否した上、韓国に拿捕された日本人漁船員らを刑期満了しても日本と同様に釈放せずに収容所に収容した上で、今度は日本とは逆に収容したまま日本側に帰国させない形とした。解決交渉の過程で、日本外務省は日本人漁船員は韓国で劣悪な待遇を受けていると主張、国際赤十字の調査を受けるよう韓国に要求した所、韓国側は自分らにも日本の収容所を調査させるよう要求、さらに紛糾することとなった[20]。日本の収容所も国際赤十字・日本赤十字が調査することとなった[21]が、その結果、日本赤十字は日本政府に日本の収容所の待遇改善を要求する事態となった。日本側は、浜松収容所の収容者を設備がまだマシとされた長崎県の大村収容所に移すことにして糊塗することを図った[22]。大村収容所では、食事の水準は確保できたようだが、もともと手狭だったため住環境は一層悪化したとされる[18]。日韓の収容者問題については、国際赤十字も解決に尽力[23]、結局、日本政府は、日本人漁船員をいわば人質に取られたような恰好となって、日本が刑余者の国内釈放する形で譲歩すれば日本船漁民を解放するという要求を最終的に受け入れ、拿捕された邦人漁船員全員と引換えに大村収容所にいた朝鮮人刑余者474人[24]を送還対象とせずに日本国内で釈放した。大村収容所の残りの戦後密入国者約千人と密入国者ばかりの川崎の収容所の韓国側出身者には、日本で結婚したり生活基盤を作り、韓国送還を望まない者も居たが強制送還の対象とされた。

脚注

関連項目

外部リンク

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