第一次クリミア地方政府は、第一次世界大戦末期の混乱の中、ドイツ帝国の軍事占領下で成立した自治的政権である。
首相(首席大臣)はリプカ・タタール人出身の将軍 マチェイ(スレイマン)・スルケヴィチ で、彼は旧ロシア帝国陸軍の士官として知られ、治安維持と行政の再建を主導した。
政府は主にリベラル派官僚、旧帝国軍将校、タタール知識人層によって構成され、社会主義勢力を排除した保守的・技術官僚的性格を有していた。
1917年のロシア革命後、クリミアではタタール民族運動により「クリミア・タタール国民政権」が一時樹立されたが、ボリシェヴィキによって短期間で崩壊した。
1918年春、ドイツ帝国軍がウクライナ方面から南下し、ボリシェヴィキを追放すると、ドイツの支援を受けてスルケヴィチが中心となる暫定地方政府が6月25日にシンフェロポリで発足した。
この政府は形式上は自治的な存在であったが、実際にはドイツ軍司令部の監督下にあり、独自の軍事・外交政策を持つことは困難であった。
政府は内務・財務・司法・農業などの各省を設け、旧帝国体制に基づく行政機構を復旧させた。
立法機関は存在せず、行政権は閣僚会議に集中していた。
スルケヴィチは法と秩序の回復を最優先課題とし、土地改革や社会主義的政策を拒否したため、社会主義者や労働者団体との対立が深まった。
タタール人やロシア人、ウクライナ人、ドイツ系住民など多民族が共存するクリミア社会の調整を図ったが、民族間の緊張は依然として残った。
経済面では、戦争と革命による混乱の影響が大きく、交通・農業・貿易はいずれも停滞していた。
政府は鉄道や港湾の再開、農産物の徴発制度の整備、通貨の安定化を試みたが、実効性は限られた。
また、ドイツ軍の駐留費用や食糧供給の確保が重い負担となり、地方経済は慢性的な資源不足に陥った。
教育や宗教活動については、旧帝国期の制度を概ね継承し、クリミア・タタール語やロシア語教育の復活も進められた。
スルケヴィチ政権は、ウクライナ国(ヘトマン・スコロパツキー政権)との関係を巡って独立志向を示したが、ドイツはクリミアをウクライナから分離した占領地域として扱い、国際的承認は得られなかった。
外交上の最大の支援国はドイツであったが、ドイツの敗戦とともにその後ろ盾を失うことになる。
1918年11月、ドイツ革命の発生とドイツ軍の撤退により、スルケヴィチ政権は支配基盤を喪失した。
11月15日、彼は辞任し、自由主義派の政治家 ソロモン・クリム が新政府(第二次クリミア地方政府)を樹立した。
しかし、ロシア内戦の激化と赤軍の進撃により、1919年春にはクリムが率いる第二次政府も崩壊し、4月初頭に クリミア・ソビエト社会主義共和国 が成立した。
第一次クリミア地方政府は、1918–1919年の短期間に存在したが、
クリミア半島における「非ボリシェヴィキ的自治政権」の試みとして、また多民族協調による地方統治モデルの初期的実験として評価されることがある。
その一方で、外部勢力への依存や、政治的基盤の脆弱さから、内戦期の混乱に翻弄された短命政権として位置付けられている。