第一次パーニーパットの戦い
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戦闘に至る経緯
16世紀前半、北インドを支配していたローディー朝はシカンダル・ローディーの死後、息子のイブラーヒーム・ローディーが王朝を継承したが、貴族勢力との内紛が続いていた[2]。
一方、イブラーヒームの権威に反抗する、ローディー朝のパンジャーブ総督 ダウラト・ハーン・ローディーやメーワール王国のラーナー・サンガの招きにより、バーブルは北インドへの遠征を着々と進めた[3]。バーブルはティムールの曾孫の子であり、中央アジアでの争いに敗れたのち、幾度か北インドへの遠征を敢行していた。
戦闘
1525年11月、バーブル軍は12,000という兵力でインダス川を渡河し、一方でイブラーヒーム・ローディーは、10万の兵と1,000頭の戦象を率いて迎撃に向かい(実数はこれより少なかったともいわれるが、バーブルよりは多かったという以外は不明である)、4月にパーニーパットで対峙した[4]。
バーブルは自軍の一部を民家の多いパーニーパットに置く一方、木の枝で覆い隠した壕で自軍を保護し、実数が悟られないようにさした[4]。また、自軍の前面に多数の荷車を縛り付けて並べた「防壁」をつくり、荷車の間ごとについたてを作って鉄砲や大砲を発砲できるようにした[4]。
バーブル軍とロディー軍は1週間ほど小競り合いをしたが、4月21日の夜明けに勝負をつけようと前進するローディー軍はバーブル軍の布陣の固さに攻めあぐねて躊躇した[4]。このすきをのがさず、バーブル軍はローディー軍を側面と背後から攻撃し、前面からは鉄砲や大砲といった火器で有効に射撃を行なった[4]。
イブラーヒームは戦象を使うこともできず、崩れつつある自軍をかろうじて支える彼の周りを固めていたわずかな兵士とともに勇敢に戦ったが敗れ、16,000人以上がこの戦闘で殺されたと推定される[5][4]。戦いは正午までに決着がつき、バーブルのもとにはイブラーヒームの首が届けられた[5]。