1941年、長崎市で誕生した[1]。1945年(昭和20年)8月9日、長崎県に原子爆弾が投下された。自身は兄と共に郊外に疎開していたために直撃を免れたものの、母が焼死し、父の永井隆も被爆した[3]。1951年(昭和26年)、父の死を看取った[3]。
長崎大学を卒業した後、兵庫県の私立仁川学院で3年間にわたって教師を勤めた後、結婚して家庭に入った[5]。この時期は「筒井茅乃」という1人の人間ではなく「永井隆の子」と見られることが多いことに、複雑な想いを抱いていた[6][7]。父を喪った悲壮感もあり、父について数十年にわたり、口を閉ざしていた[8]。
1983年(昭和58年)春に長女と長崎を旅行したことや[8]、同年に永井の随筆『この子を残して』が映画化され、出版社から児童向けの被爆体験の語り継ぎを勧められたことを機に[9]、被爆体験の出版を決意[8]。長崎市や原爆資料センターの取材旅行を経て[10]、1985年(昭和60年)に『娘よ、ここが長崎です』を刊行した[8]。幼少時の被爆当時の体験に加えて、母となってそれまで話さなかった体験を娘に伝える様子を描いた書籍である[11]。奇しくも父の没年齢と同年齢の43歳での刊行であった[9]。2006年(平成18年)までに10万部を超えるロングセラーとなり、後年には増補した新刊も刊行された[12][13]。
その後、1986年(昭和61年)に「長崎如己の会」が発足した後は、相談役を務めた[1]。さらに1992年(平成4年)から2007年(平成19年)にかけて、各地で平和を訴える講演を続けた[14][15]。
2006年(平成18年)頃から体調を崩して入退院を繰り返し、翌年頃に容体が悪化した[1]。2008年2月3日の永井の生誕百年記念式典に出席予定であったが[16]、その前日の2月2日、肝細胞癌のため、大阪府守口市の病院で、66歳で死去した[1]。
2月3日の永井の生誕百年記念式典には茅乃の遺影も飾られ[17]、茅乃の死を悼んで来場者全員が黙祷[18]、全員で「長崎の鐘」を合唱した[19]。会場となった長崎市平和会館では記帳台が設けられ、来場者が列をなした[20]。実行委員長の山下力は「博士の教えを伝えようと一生懸命活動し、私たちの誇りだった」と話した[18]。