つまらなかった物事が好ましい状態となっていたものの、それが再び元のつまらない状態に戻るということを意味する[1]。
この言葉の由来は諸説ある。この言葉は『七人比丘尼』が由来ともされる。そこで述べられていることによると、ある人が離縁をして出家をして木食の修行をしていれば木阿弥やら木食上人と呼ばれるようになっていた。だがその人物は年を取るにつれて木食の修行を怠りがちになり、元の妻とも語らうようになって行った。このようになり世人にあざけられるようになったということがこの言葉の由来であるともされる[2]。
他の由来は、百姓であった木工兵衛という人物が僧に献金をして木阿弥という号を得るということがあった。だが他の村人はその人物のことを号では呼ぼうとせずに、呼ぶことがあっても旧名に引かれたように呼ぶために、木阿弥という号を買ったものの虚しい結果となったという話が由来であるともされる[2]。
この言葉は1680年に著された仮名草子が由来ともされる。それによると京都の西山に木阿弥という無一文の人物がおり、この人物は困窮のあまり江戸に下り大名に近付き出世しようとしていたとのこと。この人物は東海道を通り江戸に着いてからは、知人の所で大金持ちと偽って寄宿した。歌舞伎を見物する帰りに大金を拾い、それから吉原で遊行をして高尾太夫と同衾をするに至った。だがこれらは眠っていた間に見ていた夢であり、夢から覚めれば京都の西山で陋居していたのであった。この話が元の木阿弥の由来であるともされる[2]。