箸尾為国
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出自
略歴
応仁の乱の直後に父が急死した為、後を継いで筒井氏と協力して越智家栄と戦った。
しかし文明7年(1475年)、筒井氏と共に万歳氏を攻撃したが、逆に大敗北となり、箸尾氏は深刻な被害を受けた。文明9年(1477年)、畠山義就が畠山政長勢を破ると、大和でも義就方が攻勢に出て、為国・筒井順尊・十市遠清ら筒井党は総崩れとなった。以後、箸尾氏らは復帰の為の戦いを繰り広げたが、筒井方は劣勢であり、文明19年(1487年)、為国は越智氏方に降参した。以後、大和では越智党の優勢が続いた。もっとも箸尾氏の去就は一定せず、文明3年(1471年)7月には筒井氏・十市氏とともに畠山義就方の若江城を攻める一方[4]、文明14年(1482年)10月には筒井党の十市氏と越智党の箸尾氏が500余の手勢で対峙しており、この時点で既に越智方へ転じていたともされる[4]。
畠山義就が延徳2年(1490年)に死去すると、後を継いだ基家は明応2年(1493年)に10代将軍・足利義稙を奉じた政長に攻め込まれるが、留守を突いた細川政元に敗れた政長は自害した(明応の政変)。同年、越智家栄は大和国衆を率いて上洛したが、為国はその中に入っていた。永正3年(1506年)の安位寺再建の奉加帳に名前が載っているが、以降の消息は不明。同族に筒井順慶に仕えた箸尾高春がいる。