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箸尾為国

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箸尾 為国(はしお ためくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。大和国の国人。箸尾宗信の子。幼名は藤徳丸。官位は上野介。

時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 藤徳丸(幼名)→為国
概要 凡例箸尾為国, 時代 ...
 
箸尾為国
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 藤徳丸(幼名)→為国
官位 上野介
氏族 箸尾氏
父母 父:箸尾宗信
妻 筒井順永娘
子 為時
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出自

箸尾氏は大和国広瀬郡箸尾(現在の広陵町箸尾)を本拠とした国人で、興福寺・春日社の被官のうち国民に数えられた。幕府方の史料は箸尾氏を「同国民箸尾為妙跡」と記している[1]。

箸尾氏の系図は秋山日出雄が新たに見出したものを紹介しており、史料に名の見える歴代として為方・為妙・為国・為政・為綱らが挙げられる[2][3]。

略歴

応仁の乱の直後に父が急死した為、後を継いで筒井氏と協力して越智家栄と戦った。

しかし文明7年(1475年)、筒井氏と共に万歳氏を攻撃したが、逆に大敗北となり、箸尾氏は深刻な被害を受けた。文明9年(1477年)、畠山義就が畠山政長勢を破ると、大和でも義就方が攻勢に出て、為国・筒井順尊・十市遠清ら筒井党は総崩れとなった。以後、箸尾氏らは復帰の為の戦いを繰り広げたが、筒井方は劣勢であり、文明19年(1487年)、為国は越智氏方に降参した。以後、大和では越智党の優勢が続いた。もっとも箸尾氏の去就は一定せず、文明3年(1471年)7月には筒井氏・十市氏とともに畠山義就方の若江城を攻める一方[4]、文明14年(1482年)10月には筒井党の十市氏と越智党の箸尾氏が500余の手勢で対峙しており、この時点で既に越智方へ転じていたともされる[4]。

畠山義就が延徳2年(1490年)に死去すると、後を継いだ基家は明応2年(1493年)に10代将軍・足利義稙を奉じた政長に攻め込まれるが、留守を突いた細川政元に敗れた政長は自害した(明応の政変)。同年、越智家栄は大和国衆を率いて上洛したが、為国はその中に入っていた。永正3年(1506年)の安位寺再建の奉加帳に名前が載っているが、以降の消息は不明。同族に筒井順慶に仕えた箸尾高春がいる。

脚注

関連項目

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