米食低脳論
昭和の日本で提唱された栄養の概念
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背景
戦後の食糧難は深刻を極めていたが、マッカーサー元帥は「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と言っており、公衆衛生福祉局長のサムスは講演で「この戦争は、小麦を食う者が強いか、米を食う者が強いかの戦いであった。そこで小麦を食う者の方が強いということが証明された」と発言[1]、GHQは米や和食を低く見ていた。また、日本でも明治維新以来の欧米崇拝思想が根強く、再開された学校給食は[注釈 1]、子どものうちから味を覚えさせ日本人の食習慣を変えさせるという意図もあり、パンと脱脂粉乳が主体であったため日本人の食事の欧風化が進行していた[3]。
連合国軍の占領下の1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金の経済援助が行われていたが、1952年(昭和27年)に講和条約が発効し独立を回復したことから深刻な食用不足なかで経済援助は打ち切られることとなった。1953年(昭和28年)10月には総理大臣吉田茂の特使として池田勇人が派遣され池田・ロバートソン会談が行われた。1ヶ月及ぶ会談で産業の復興と再軍備のための軍事援助を受けることが決まり、それと引きかえに余剰農産物を引き受けることが合意された[4][5]。そして、MSA協定が改定されアメリカでは余剰農産物処理法が成立した[6]。
粉食奨励運動
林髞による主張
慶應義塾大学医学部の教授で大脳生理学者である林髞(小説家としてのペンネームである木々高太郎としても知られる)が1958年に著した書籍である、『頭脳―才能をひきだす処方箋』の中で提唱されていた。この書籍は発売から3年で50刷にもなったほどの当時のベストセラーであった。
この書籍によると日本が欧米に劣っているのは白米を食べているからということであった[11]。だからせめて子供の主食だけはパンにした方が良いとしていた。大人は米で育てられてしまっており悪条件が重なっているのだから諦めようとしていたが、子供たちの将来だけは我々とは違って頭が良く働くようになり、アメリカ人やソ連人と対等に話ができるように育てようと呼びかけていた[12]。
林によると頭の働きにはどうしてもたんぱく質が必要であり、そのたんぱく質を分解する眠りによる回復にはどうしても炭水化物が必要とのことであった。当時に分かってきたことというのは脳髄が働くにはたんぱく質が分解してできる窒素化合物であるプラス物質とマイナス物質が必要であり、プラス物質が生じるにはビタミンB類が必要とのことであった。そしてもしビタミンB類が欠乏すれば頭の正しい働きができなくなるとのことであった。ビタミンB類があっても白米を食べたならばその消費に用いられてしまうために脳の方で用いるのに不足する。このため日本ではいつもビタミンB類が不足した働きしかできない頭脳のまま成長しているために大人になってから不都合なことが起こっていたとのことであった[13][14]。
パン食礼賛
元々粉食奨励は日本側の取った基本路線であった。米が絶対的に不足しているなかでのやむにやまれぬ「代用食のすすめ」であり、従ってパンの栄養価は説くものの米を攻撃するものでは無かった。だが、余剰小麦の販売を促進するための粉食奨励になると、様相が一変する[15][6]。
1956年(昭和31年)全国食生活改善協議会は、公法480号により3千882万円の活動資金の提供を受け、製パン業者技術講習会事業を請け負った。地方のパン職人数10人が東京に集められ、アメリカ人製パン技術者の指導で製パン技術を伝授された。この指導を受けたパン職人は地方に戻ったのち製パン技術講習会を開くことが義務づけられていた。この方式で、初年度1年だけで全国200会場、1万人の職人がアメリカ式製パン技術を習得した[15]。牛乳とともに給食の定番となったパンも戦前までは常食されていたわけではなくパン職人も多くはいなかったので、パン食普及のためには多くの職人と、製パン業者の育成が必要だったのである。翌1957年(昭和32年)には7千330万円で請け負って、粉食奨励の宣伝事業を行った[16]。
1958年(昭和33年)には御用学者林髞により『頭脳―才能をひきだす処方箋 』が出版されベストセラーになった[10]。林髞の『頭脳― 』のほか、厚生省栄養課課長の大磯敏雄は『栄養随想』なかで「米を食べると勤労意欲を消失し貧乏になり、おかずは買えないので米を大量に食べ、眠気をもよおし思考する方向に頭脳が働かない」のような同様の説を唱えていたが、『頭脳― 』の場合、著書の肩書きが慶應大学医学部教授ということになると影響力が大きく、マスコミの注目するところとなり、製粉・製パン業界の講演会などでは林髞は引っ張りだこだったという。小麦の販売促進を担っていた小麦食品業界が印刷した『米を食べるとバカになる』というパンフレットは数10万部も配布され、医学者の立場から「科学的」に粉食奨励を訴える見解は、厚生省や関連業会にとっては頼もしい助っ人に映ったであろう[17]。
また、地方への学校給食の普及活動を行っていた日本学校給食会は、全日本パン協同組合の後援で『いたちっ子 』というPR映画を作った。「ある田舎町に2つの小学校があり、山場の小学校ではまだパン給食が始まっておらず米ばかり食べているので、腹のでっぱったいたちのような体つきをしていた。すでに学校給食を始めていた町場では子供たちの体位向上がめざましく、山の子供をいたちっ子とバカにしていた。山場の小学校の父兄は米づくりの農家が多くパン給食に反対だったのである。そして、町内マラソン大会で山場の代表選手が途中で息切れし地面にうずくまってしまい、それをみた父兄も納得して山場の小学校でもパン給食が始まり、いたちっ子とバカにされることもなくなった。めでたし、めでたし。」というもので、後になって見ると、空恐ろし内容のものだが、当時は抵抗なく受け入れられたのである[15][18]。
こうしたこともあり、それまで反対していた食糧庁も合流して官民上げてのパン食礼賛の大合唱となった[18]。
飼料穀物
小麦業界に遅れること5年、1960年(昭和35年)7月1日にアメリカ飼料用穀物協会が発足、1961年(昭和36年)最初の海外拠点として日本に事務所を開設した[19]。それに先立つ1960年(昭和35年)1月20日には、伊勢湾台風などの2度の台風で大きな被害を受けた山梨県にアイオワ州から前代未聞の『種ブタ空輸作戦(ホッグ・リフト)』によって、飼育のための指導員とともに、35頭の種ブタが贈られていた[注釈 2]。デモインの空港から空軍機によって羽田空港まで空輸されたものである。贈られた種ブタはランドレースやヨークシャーなどそれまでの日本のブタとは違う大型のブタで、多くの肉を得られるかわりに大量の餌も必要になり、別途海上輸送で1,500トンの飼料用のトウモロコシも贈られており、それを引き継ぐためであった[20][21]。
そして、羽田での贈呈式で農林大臣の名代として挨拶した畜産部長の安田善一郎[注釈 3]を中心に日本側の包括的な受け入れ団体としての日本飼料協会が設立され、会長には農林省OBの蓮池公咲が就任した。日本飼料協会も公法480号の資金により販売推進活動を行なった[20]
『ホッグ・リフト』の際、在アメリカ大使館の一等書記官で農林省との調整を担当した所秀雄は、駐日アメリカ大使館の農務関係事務所がおかれているビルの食堂で食事している時、隣の席にいたアメリカ人から声をかけられた。このアメリカ人はアメリカ飼料用穀物協会によって日本に派遣されたベーカー博士で、招待に応じて宿泊しているホテルを訪問し博士の開発した採卵鶏の新種「ハイライン鶏」を紹介された。所は1962年(昭和37年)11月15日に退官し、翌年2月にハイライン鶏の受け入れのためハイデオ社を創業、3月には3,000羽を試験輸入する。その後も輸入を続けるとともに、アメリカへの視察ツアーを企画し、技術指導を受けるという活動も行った[22]。
それまで農家の副業として行われていた養豚は、残飯などを餌にした小規模なものであり、卵を採るために庭先養鶏が行われていたにすぎなかったが、アメリカの援助で養豚業や養鶏業が生まれたのである。また牛も、田畑の耕作のため、牧草のほか道端の雑草なども餌として与え飼育されていた役牛が主だったものが、ワシントン小麦生産者協会との間で「小麦及び酪農製品の日本における市場開拓に関する契約」を締結した日本学校給食会の活動もあり酪農製品も普及した[23]。元々から卵は、量は多くはなかったものの日本の食生活に馴染んでいたものである。しかし、鶏肉については卵を産まなくなった廃鶏をつぶして食べる程度のものであった。日本の伝統的な「米と魚と野菜」の和食に変わって「パンと肉とミルク」の欧米風の食生活が普及し始めるなか、採卵用のハイライン鶏に続いて鶏肉用のブロイラーも導入された[24]。
こうして、アメリカの援助により畜産業が発展するにしたがって飼料穀物の輸入も増加していった。餌を輸入に依存して発展した日本畜産の場合、国産の肉や牛乳、卵を食べれば食べるほど食料自給率が下がるという特徴を持つことになった[21]。食生活はその国その地域で産出されるものを基礎にして形成されるのが大原則で、外国の農産物をあてにした食料政策・栄養教育は本末転倒といわざるを得ない。食料自給率が先進国中最低に落ち込んでいる原因は栄養改善運動で欧米型食生活を奨励したことにある[25]。
現在でも、農林水産省は米の増産には消極的な一方で、飼料穀物の輸入を要する、酪農・養豚や養鶏に力を入れ、日本の食料自給率を下げている。21世紀の最初の年ジョージ・W・ブッシュはこうスピーチをした「国民を養うのに十分な食料を育てられなかった国を想像できるか?、その国は国際的な圧力にさらされたり、危機に瀕していたりする国だろう?」。先進各国が安全保障の根幹である食料自給のためとして農業保護政策を採るなかで、ひとり日本のみ食料自給と農業保護をおろそかにしている[26][21]。
責任論
1954年(昭和29年)ごろからは絶対的米不足と財政難を背景にアメリカの余剰小麦と財政投融資金を持ち込という選択をし、1960年(昭和35年)には池田内閣は所得倍増計画を打ち出し日本の工業化を宣言した。食管会計の赤字が叫ばれるなか、1963年(昭和38年)の大凶作を契機に日本の小麦生産はどんどん落ち込み安楽死させられ、水田裏作に小麦を作っていた農民は、工業化のための安い労働力として狩り出されることになった[27]。その後、1979年(昭和54年)には、またぞろ財界から農業過保護論が反復され労働会も合唱に加わる。食管会計の赤字の批判とともに、「安い農産物を輸入して消費者を救え」と「提言」の名で農業攻撃を展開し、日本の伝統的農業は捨石にされ続けている[28][29]。
アメリカは余剰農産物を日本に売り込むために、日本人の食生活を根底からひっくり返すというひどいことをした、と受け止め、アメリカの謀略であったという人も少なくない。しかし冷静に考えると一方的に非難するのは適切ではない。実行された全ての事業は、協議のうえ日本側が納得了承し契約書を取り交し、それにもとづいて行なわれている。栄養改善運動の資金の出所が公法480号だということは国民に知らされていなかったものの、政府や関係者は全て承知のうえで調印したのである。
アメリカが日本人の食生活を変えようとしたのは事実であり、余剰農産物を有効に使って日本市場を獲得したのも事実である。また当時の日本の関係者が余剰農産物に頼って日本人の食生活の欧米化を望んだ結果、食生活が大きく変化した、ということは認識しておかなければならない。栄養改善運動が純粋に栄養学的見地からのみ行われたのではない、ということを知っておくことも大切である。[25]。