大磯敏雄
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戦後厚生省に栄養課が創設されその課長補佐となった大磯は、医学的観点を重要視するサムスとは気が合ったことから[1]、献身的な協力をし、また国民を飢餓から救うべく大きな努力をした[2]。学校給食の開始にあたっては、サムスの「子どものうちから味をおぼえさせ日本人の食生活を変えさせる」という方針に対し農林省は難色を示したものの大磯はこれに同調、パンとミルク(脱脂粉乳)の給食が始められた[3]。
日本が独立を回復した1952年(昭和27年)に栄養改善法が施行され、アイデアマンであった大磯は廃車寸前の小型バスを改造してキッチンカーを試作[4]、これを使っての栄養改善の指導を発案した。そして、来日したオレゴン州小麦生産者連盟会長リチャード・バウムの訪問を受け資金援助の提案があったことから[5]、国策パルプ副社長南喜一の申し出を好機に1955年(昭和30年)日本食生活協会を設立、自民党の大物賀屋興宣を会長に迎え、オレゴン州小麦生産者連盟から提供された公法480号資金によって製作したキッチンカーを、日本全国に走らせ栄養改善を推し進めた[4][6][7]。なお、独自の食哲学を持ち、著書『栄養随想』なかで「米を食うという生活は人をして消極的になり、勤労意欲を消滅し、従って貧乏になる。貧乏になれば、肉や魚や野菜などを贖う力がないから、廉い米をたらふく食うということになり、その結果は、眠気をもよおし、思考する方向に頭脳が働かぬということになる。」との自論を展開している[2][8]。
1974年(昭和49年)に国立栄養研究所所長を定年退官した。厚生省栄養課の初代課長で大磯の前任の国立栄養研究所長有本邦太郎が、「日本人が米国に餌付けされ、私がその手先となったが、もはや退職していて取り返しがつかないと告白し」日本型食生活に賛同しているのとは対照的に、退官後も自身の業績を自賛し続け、マスコミの取材に応じた際には「需要に合わせて食糧を生産するように指導するのが農林省のとるべき道なんだ。それを生産者の都合に合わせて、余った米を食べろなんてのは主客転倒もはなはだしいですよ。」と、欧米風の食生活の更なる推進と米の減産を主張している[9]。