米国撃滅艦隊
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| 米国撃滅艦隊 | |
|---|---|
| Suicide Fleet | |
| 監督 | アルバート・S・ロージェル |
| 脚本 | ルウ・リプトン、F・マグルー・ウィリス |
| 原作 |
ハーバート・A・ジョーンズ作 『Mystery Ship』 |
| 製作 | チャールズ・R・ロジャース |
| 出演者 |
ウィリアム・ボイド ロバート・アームストロング ジェームズ・グリーソン ジンジャー・ロジャース |
| 音楽 | アーサー・ラング |
| 撮影 | ソル・ポリート |
| 編集 | ジョゼフ・ケイン |
| 制作会社 | RKOピクチャーズ |
| 配給 | RKOピクチャーズ |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 87分 |
| 製作国 |
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| 言語 | 英語 |
『米国撃滅艦隊』(べいこくげきめつかんたい、Suicide Fleet)は、アルバート・S・ロージェルが監督し、ルウ・リプトンとF・マグルー・ウィリスが脚本を書いて、ウィリアム・ボイド、ロバート・アームストロング、ジェームズ・グリーソン、ジンジャー・ロジャースが主演した、1931年に制作されたドラマ映画、プレコード時代のアメリカ合衆国の映画[2][3][4]。1931年11月20日に、RKOピクチャーズから公開された。
キャスト
- ビル・ボイド - Baltimore
- ロバート・アームストロング - Dutch
- ジェームズ・グリーソン - Skeets
- ジンジャー・ロジャース - Sally
- ハリー・バニスター - 司令官
- フランク・レイカー - Holtzmann
- ベン・アレクサンダー - Kid
- ヘンリー・ヴィクター - Captain Von Schlettow
- ハンス・ジョビー - Schwartz
制作
1931年3月はじめに、RKOは、立ち上がってまもないこのスタジオでビル・ボイドが最初に主演する映画として、潜水艦ドラマ『Suicide Fleet』を制作すると発表した[6]。映画の当初のタイトルは『Mystery Ship』といい、ドイツ側と通信する船の謎めいた性質を表すものであった[7]。翌月、ルウ・リプトンが脚本を書き進めていると報じられ、それをマリオン・ジャクソンが映画用に仕上げることとなったが[8]、ハロルド・シューメイトも脚本に参加すると報じられた[9]。7月の時点で、ジェームズ・グリーソンも、ロバート・アームストロングも、この映画に加わっており、脚本はピエール・コリングスが支援するとも報じられた[10]。撮影は、1031年7月27日から始まった[1]。業界紙は、ソル・ポリートが撮影監督を、デンゼル・A・カトラー (Denzel A. Cutler) が音響編集者を務めると報じた[11]。8月、RKOは、新たにハリー・バニスターがキャストに加わると発表した[12]。撮影は既に始まっていたが、キャストの最終版として、フランク・レイカー、ヘンリー・ヴィクター、ハンス・ジョビーの出演が公表されたのは8月下旬であった[13]。この映画の撮影には、数千人に及ぶエキストラがRKOに雇われた[14]。それまで専属契約を結んでいたパラマウント・ピクチャーズのいくつかの作品で軽めの役をこなしていたジンジャー・ロジャースは、この映画で初めて主演級の役を与えられた[15]。
この映画の一部は、サンペドロ海軍基地(San Pedro Naval Base、後のロングビーチ海軍造船所)で撮影され[9]、RKOのカルバーシティのスタジオでも撮影がおこなわれた[16]。8月後半には、キャストとクルーは、カリフォルニア州サンディエゴの沖合 20マイルから50マイルのあたりで、アメリカ海軍の協力を得て、数週間にわたる海上での撮影をおこない、その後またカルバーシティのスタジオに戻った[17]。撮影の間、アルバート・S・ロージェルは、実際に海軍将官たちを通して、海軍の艦艇10隻の指揮を執っていた[18]。海上撮影の際には、航行中のインディアナ (USS Indiana) とボヘミア (US Bohemia)[19] がおもに使用され、また、複数のタグボート、当時、世界最大の潜水艦であったアルゴノート (USS Argonaut) を含む、数隻の潜水艦、ウィックス級駆逐艦デント (USS Dent) を含む、数隻の駆逐艦が、撮影に使用された[20]。子役として知られていたベン・アレクサンダーも、この作品に出演すると発表された[21]。RKOは、映画の完成は10月中旬になると公表していた[22]。
本作では、映像とサウンドを別々のリールに収める、デュアル・システムという、新しい携帯用録音機材が採用された。録音機材は従来のものより、小型化、軽量化、されており、当時の他のどんな機材よりも可搬性に富んでいた[20][23]。
11月上旬、RKOは、感謝祭の週末に合わせて本作を封切ると公表した[24]。直後には、ジョー・ケインが、編集作業の仕上げに入った[25]。11月16日、RKO は、本作の封切り日を11月20日と公表した[26]。1931年11月20日にこの映画が公開された際、ニューヨークのメイフェア・シアター(Mayfair Theater、元のコロンビア劇場、後のデミル・シアター (DeMille Theatre))が、劇場の前面をアメリカ海軍の戦艦を模した姿に造り替えた[27]。本作の制作費は、予算額を 85,000 ドルも超過してしまったという[7]。