アメリカ合衆国の映画

アメリカの映画 From Wikipedia, the free encyclopedia

本項では、アメリカ合衆国の映画(アメリカがっしゅうこくのえいが、英語:Cinema of the United States)について解説する。

映画には国籍はないが、税制、補助金、貿易、映画祭といったそれぞれの制度で必要上、便宜的に、事実上のアメリカ国籍(デファクトナショナリティ)を付与される映画のこと。主にアメリカ合衆国の人々や映画会社によって製作された映画のこと。特にカリフォルニア州ロサンゼルス郡ロサンゼルス市ハリウッド映画スタジオによって制作製作された映画はハリウッド映画(ハリウッドえいが)と呼ばれる。

また、ハリウッドの大手映画会社による映画以外にも、ハリウッド以外の場所で小さな会社が作った映画や自主映画など小予算で製作した映画も含まれる。アメリカの映画に関わる映画メーカー・俳優はアメリカ合衆国籍とは限らず、世界各国から渡米した人々が多く、国際性が豊かである。

歴史

1890年代以前 映画の誕生

1878年イギリス生まれの写真家エドワード・マイブリッジ実業家リーランド・スタンフォードの依頼により疾走中の馬の姿を12台のカメラで連続撮影することに成功した。アメリカのトーマス・エジソンはこの『動く馬』の連続写真[注釈 1]フランスエティエンヌ=ジュール・マレーが1882年に開発した写真銃に触発され、動くイメージを再現する器械の研究を始め[1]1893年に「キネトスコープ」という映写機を発明した。これは箱を覗くとそこに動く映像が見えるという覗き穴式だった。映画の基本原理はエジソンによって開発されたが、一般向け興行としてスクリーンにフィルムを投影するという形態を「映画」とするならば、現代の映画の直接の起源と言えるのは1895年にフランスのリュミエール兄弟がキネトスコープを改良した「シネマトグラフ」である。アメリカ初のスクリーンへの映画の投影は1896年にキネトスコープを改良したヴァイタスコープを使ってブロードウェイの劇場で行われた[2]

上は1894年のマイク・レオナード対ジャック・クッシング戦[3]、下は同年のジェームス・J・コーベット対ピーター・コートニー戦のボクシングを記録した活動写真。いずれも全6ラウンドの一部で[4]実際の公式試合ではない。

1894年6月15日にはエジソン製作所のウィリアム・K・L・ディクソンとウィリアム・ハイセがブラックマリアというスタジオで[5]スポーツ初の商業映画として[6]、マイク・レオナードとジャック・クッシングが対戦するボクシングの6回戦を撮影した『レオナード対クッシング戦フランス語版』を製作している[7]。同社は続けてこの年、ジェームス・J・コーベットがピーター・コートニーを6回にノックアウトする『キネトグラフの前のコーベットとコートニー英語版』を撮影し[6][7]、この作品は全国的なヒットとなった[5]。1895年5月に行われたボクシングの試合の撮影では、レイサム兄弟が開発したアイドロスコープというプロジェクターが初めて使われ、レイサムループという投影装置を利用してより尺の長い映画が撮れるようになっていた[6]。これらの映像はボクシングの実際の公式試合を映したものではなく、脚色や演出があったとされている[8]

1899年に製作された『Love and War』は、アメリカ映画史上最初のドラマ作品とされている。これは、米西戦争を舞台に家族の別れと再会を描いたものだった[9][10]

1900年代-1920年代 サイレント時代

1903年、当時エジソンの会社にいたエドウィン・S・ポーターが『大列車強盗』を製作した。物語を持った初期の映画で、西部劇の元祖ともいえる作品である。この頃の映画はまだ紙芝居のような見世物の段階であった。1905年に、アメリカでは初めての映画館ピッツバーグに設立された。

エジソンシネマトグラフをアメリカで使用する特許を独占し、MPPCというトラストを組んでトラスト外の業者を排除しようとしたために、アメリカ東海岸での映画製作は難しいものとなっていた。このトラストに対抗しようとした映画人たちは、降雨も少なく、様々な風景があり、映画製作にも適していた西海岸ロサンゼルスに映画製作機能を移転し始めた。1915年にはMPPCに対しシャーマン反トラスト法違反の判決が下り、その力は決定的に弱体化した。こうして映画産業の中心地は西海岸のハリウッドへと移転していった。

米国の映画産業を作り上げたのは主にユダヤ人移民だった。ユダヤ人は他の仕事には迫害を受けており、映画という新しい娯楽ビジネスに注目したのである。1912年にはユニヴァーサル映画パラマウント映画1915年には20世紀フォックスの元となるフォックス・フィルム、1919年ユナイテッド・アーティスツ1923年ワーナー・ブラザース1924年メトロ・ゴールドウィン・メイヤーコロムビア映画1928年RKOが設立されるなど、現在のメジャースタジオが次々と設立された。これらの会社を設立したのは皆ユダヤ人で、また、キャスト、スタッフ、等にもユダヤ人が多い他、アイルランド系も多かった。

1915年にはD・W・グリフィス監督の『國民の創生』が公開された。この映画はクロスカッティングクローズアップ等の映画的テクニックを物語を語る手法として効果的に使用した画期的な作品として映画史に記録されており、グリフィスは「アメリカ映画の父」とも呼ばれる。この時期にグリフィスと並ぶ活躍を見せたほかの映画監督プロデューサーとしてはセシル・B・デミルトーマス・H・インスがいる。トーマス・H・インスは後のスタジオ・システムの原型となるプロデューサー主導の映画製作システムを最初に導入した。

サイレント期はスラップスティック・コメディが流行した時期でもあった。このジャンルはグリフィスのもとで映画製作を学んだマック・セネットにより始まった。セネットに続いたチャールズ・チャップリンバスター・キートンハロルド・ロイドといった三大喜劇王によりサイレント喜劇は黄金時代を迎えた。

第一次世界大戦1914年1918年)の後、多くの映画製作者や俳優がヨーロッパから渡米してきた。監督ではイギリス出身のアルフレッド・ヒッチコックオーストリア出身のエリッヒ・フォン・シュトロハイムドイツ出身のF・W・ムルナウ、俳優ではスウェーデン出身のグレタ・ガルボ、ドイツ出身のマレーネ・ディートリッヒが有名である。

創成期のハリウッドでは監督に限らず、多くの職種が女性に開かれていた。ロイス・ウェバーは短編を含む100本を優に超える作品を撮り、アメリカ人女性では初めて長編劇映画も監督した[11]

映画は好景気の1920年代ウォール街の投資家たちの資金が入り一大産業に成長した。この時代に製作配給興行の三部門が統合・系列化され、作品を一括して劇場側に上映させるブロック・ブッキングを行うスタジオ・システムが形成され、T型フォードの流れ作業の生産方法の考え方が映画製作にも反映された。長編映画を効率よく製作することを可能にしたスタジオ・システムは1940年代までは有効に機能し、映画王国ハリウッドを支えることになった[12]

1927年、アメリカで長編映画としては初めてのトーキー映画ジャズ・シンガー』が公開され、これ以降トーキー全盛期となる。1929年には第1回アカデミー賞が開催された。見世物として始まった映画が、本格的に文化として認められ始めたといえる。

1930年代-1940年代 黄金時代

映画が単なる娯楽の役割を超えて社会にもたらす影響を懸念する声が出てくる中で、アメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)は1930年にヘイズ・コードとしても知られている「映画製作倫理規程」を発表、1934年には映画倫理規定管理局(PDA)を設置し、映画表現の自主規制が始まった。この自主規制は1967年まで続き、アメリカ映画の性格を大きく規定することになった[13]

1930年代から40年代にかけてスタジオ・システムは黄金期を迎え、年間総計400~500本の長編映画が製作されており、大規模で良質な映画が次々と生み出された。『キング・コング』、『或る夜の出来事』、『風と共に去りぬ』、『駅馬車』、『市民ケーン』、『バグダッドの盗賊』『独裁者』などが代表的である。

新婚道中記』や『フィラデルフィア物語』などのスクリューボール・コメディと呼ばれるロマンティック・コメディ映画や、『四十二番街』、『トップ・ハット』、『巨星ジーグフェルド』、『踊るニュウ・ヨーク』、『若草の頃』などメトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作作品を代表とした大掛かりなミュージカル映画が流行した。また、『マルタの鷹』、『飾窓の女』、『三つ数えろ』、『白熱』などのフィルム・ノワールと呼ばれるそれまでのアメリカ映画にはなかった暗さを持つ映画も多く作られた。

1941年から参戦した第二次世界大戦中には、『カサブランカ』、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』、『東京上空三十秒』などの戦意高揚を目的とした、愛国的な映画や、戦争プロパガンダ作品も多く製作された。通常の娯楽映画のほかにも『我々はなぜ戦うのか』のような戦争の意義を解説するドキュメンタリー映画がハリウッドの監督たちによって製作された。

第二次世界大戦後・凋落の始まり

アメリカ人が映画館へ行った回数。週平均の数字の、各年の推移のグラフ。テレビの普及やテレビ番組の充実とともに来館者数が低下していった。

第二次世界大戦終結後、アメリカは超大国として繁栄を極めたが、その裏腹にアメリカの映画産業は衰退に転じた。衰退の原因は大きく三つで、テレビの普及によるライフスタイルの変化、パラマウント判決によるスタジオ・システムの崩壊、赤狩りによる映画人の追放である。ハリウッドが史上最多の観客動員数を記録したのは1946年であったが、翌年からは減少に転じ、10年後には約半分にまで落ち込むことになる[14]

1950年代

テレビが新しい娯楽として広まったものの、『巴里のアメリカ人』や『雨に唄えば』、『バンド・ワゴン』などのミュージカル映画を中心とした大掛かりなセットを駆使し大量のスターを起用した娯楽大作の全盛期が続いた。一方で、『スタア誕生』、『喝采』、『オクラホマ!』など、ストーリー性を重視したミュージカルが50年代半ばに誕生し、現在まで続くミュージカル映画の原型を造った。

この時期の映画会社は、テレビとの差別化の為、これまでのスタンダード・サイズから、画面の拡大化を目指し始めた。20世紀フォックス社は1953年公開の『聖衣』で初めてシネマスコープを導入し、その後『百万長者と結婚する方法』、『ディミトリアスと闘士』などに採用され、フォックス以外にも『掠奪された七人の花嫁』、『エデンの東』、『長い灰色の線』などもシネマスコープで製作された。一方、同業他社のパラマウント映画社も1954年の『ホワイト・クリスマス』で実用化されたビスタビジョンで対向し、『泥棒成金』、『必死の逃亡者』、『十戒』などを製作した。

テレビへの対抗策として画面の拡大化のほかに3D技術にも注目が集まり、1952年に初の本格的なカラー立体映画『ブワナの悪魔英語版』がヒットすると最初の3D映画ブームが巻き起こった。ブームは1954年まで続き、『肉の蝋人形』、『大アマゾンの半魚人』、『ダイヤルMを廻せ!』といったヒットが生まれた。しかしブームは1955年以降急速に沈静化し、ワイドスクリーンのように定着することはなかった[15]

1940年代後半から1950年代前半にかけて、冷戦開始に伴う赤狩りの影響で、チャールズ・チャップリンなど多くの「左翼的」、「容共的」とみなされた映画人がアメリカの映画産業を追われることとなった他、作品の内容にも大きな影響を与えた。また、アメリカ国内ではなく、ヨーロッパアフリカで撮影する場合も多かった。『ローマの休日』、『アフリカの女王』、『パリの恋人』、『戦争と平和』、『フランケンシュタインの逆襲』、『ベン・ハー』などが代表的である。『地球の静止する日』や『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』など、共産主義核戦争に対する恐怖を反映させたSF映画も多数製作された。

戦後新しく生まれたジャンルとしてはティーン映画がある。戦後はベビーブームと経済成長を背景として若者が大人とは異なる消費者層を形成し、映画界もティーンエイジャーを対象とする映画を製作した。代表作に『乱暴者』、『理由なき反抗』、『暴力教室』がある。

1950年代は映画産業が斜陽に向かっていたものの、ジョン・フォードハワード・ホークスアルフレッド・ヒッチコックウィリアム・ワイラーといった巨匠が引き続き活躍し、アンソニー・マンジョセフ・ロージーエリア・カザンサミュエル・フラーニコラス・レイロバート・アルドリッチリチャード・フライシャーなど若い世代の監督も台頭した。

エリア・カザンリー・ストラスバーグが率いたアクターズ・スタジオで採用されたメソッド演技法はハリウッドの演技面でのリアリズムに大きな影響を与えた。アクターズ・スタジオ出身の代表的俳優としてはマーロン・ブランドジェームズ・ディーンがいる[16]

1960年代

公民権運動ベトナム戦争に揺れた1960年代のアメリカは激動の時代であったが、その劇的な社会の変化がハリウッド映画の内容に反映されるまでには時間がかかった。スタジオ・システムが崩壊したものの、1960年代の半ばまでは、娯楽映画やミュ-ジカルを映画化した作品の全盛期が続いた。代表的なものに『ティファニーで朝食を』、『メリー・ポピンズ』、『ウエスト・サイド物語』、『サウンド・オブ・ミュージック』等がある。また、公民権運動の広がりに合わせて、ようやくアフリカ系アメリカ人俳優が主役級の立場で正当な評価を受けるようになり、1963年シドニー・ポワチエが社会派作品『野のユリ』でアカデミー主演男優賞を受賞した。

1960年代後半に入ると1965年の『サウンド・オブ・ミュージック』が大成功したことからハリウッドでは類似作を連発するようになる。しかし多くの作品は製作費すら回収できない興行的失敗が続いた[17]。これは暴力や性描写に厳しい保守的なヘイズ・コードが戦後のベビーブーマー世代の青年観客たちに時代に合わないと見なされるようになったことも要因であった。1967年の『俺たちに明日はない』と『卒業』の2作は過激な性描写や暴力表現を導入したことで若年層に強く支持され、映画の観客数は一時的ではあったが久しぶりに上昇した[18]1968年にはレイティングシステムの導入に伴いヘイズ・コードは完全に廃止された。その後も1969年の『イージー・ライダー』と『真夜中のカーボーイ』のような反体制的な若者を描いた作品が好評を得た[17]。日本では「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる[注釈 2]おおむね1967年から始まった体制批判や犯罪行為、セクシャリティをテーマとしたハリウッド映画の潮流は1970年代半ばまで続くことになる。

アポロ8号が初の有人月周回飛行に成功した1968年には『猿の惑星』と『2001年宇宙の旅』の二本のSF映画がヒットした。

この頃新たな収益源を模索したスタジオは、テレビシリーズの製作に活路を求めるようになり、『奥さまは魔女』、『かわいい魔女ジニー』、『鬼警部アイアンサイド』、『スパイのライセンス』、『逃亡者』、『コンバット!』、『0011ナポレオン・ソロ』、『スパイ大作戦』、『ヒッチコック劇場』、『刑事コロンボ』等、多数のテレビシリーズを成功させた。

1970年代

1970年代に入ると、フランシス・フォード・コッポラマーティン・スコセッシスティーヴン・スピルバーグジョージ・ルーカス映画学校で学び、1960年代ヨーロッパで生まれた技術を身につけた監督が台頭するようになる。インテリ向け映画や文芸派コメディを撮影したウディ・アレンが注目されたのも、1970年代に入ってからである。

1970年代に映画作家の社会的地位は飛躍的に向上した。これは1969年から1971年の間にアメリカ映画産業全体が深刻な不況に見舞われていたが、この低迷から業界を救ったのが作家主義的な映画監督たちの作品だったからである。1970年ロバート・アルトマン監督『M★A★S★H マッシュ』は作家映画でありながら批評だけでなく商業的にも大きな成功を収めたことで、映画監督の権限と製作費は増加していった[19]1972年フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』は作家映画でありながら高額予算のブロックバスターとしても成立したことで、映画監督たちが自由にできる製作費が更に増える好循環が生まれるようになった[19]。コッポラはその後も『ゴッドファーザー PART II』『地獄の黙示録』といった大作映画を製作した。そのほか、スタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』、ロマン・ポランスキー監督『チャイナ・タウン』、テレンス・マリック監督『地獄の逃避行』、ジョン・カサヴェテス監督『こわれゆく女』、ウィリアム・フリードキン監督『フレンチ・コネクション』、シドニー・ルメット監督『狼たちの午後』、ミロス・フォアマン監督『カッコーの巣の上で』、マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』、マイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』等の多くの作家主義的な名作が生まれた時代であった。

1970年の『小さな巨人』と『ソルジャー・ブルー』によってそれまでアメリカ先住民悪役として描いてきた西部劇は転換点を迎えることとなった。サム・ペキンパー監督は『ワイルド・バンチ』や『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』等の作品で西部劇の終わりを描いた作家であった。

ポセイドン・アドベンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』などの巨額を投じたパニック映画の製作も流行した。1975年の『ジョーズ』は作家映画でありながらシンプルでわかりやすい内容であったことから幅広い観客を惹きつけてブームを巻き起こした。1976年の『ロッキー』以降はアメリカン・ドリームを描く作品の人気が再燃するようになった。1977年の『スター・ウォーズ』は映画産業以外の業界をも巻き込む、大きな経済的・社会的インパクトを与えた。SF映画では『スター・ウォーズ』を皮切りに、『未知との遭遇』『エイリアン』などのヒット作が多く製作された。また、『007シリーズ』は『ダイヤモンドは永遠に』『死ぬのは奴らだ』『黄金銃を持つ男』を制作した後、SF色を増した『007/ムーンレイカー』を発表した。

配給権を握るハリウッドの幹部たちは70年代に生まれた数々のヒット作品から新たな定型を創出していき、再び大手スタジオは力を取り戻していった。これにより作家主導のハリウッド映画の流れは終わりを迎えた[19]

1980年代

1980年代に入るとメジャー映画スタジオは『ジョーズ』から『スター・ウォーズ』への大ヒットへと続く流れを発展させ、大規模予算を投下し視覚的スペクタクルを強調するブロックバスター映画を映画製作のモデルとしていった。『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『E.T.』、『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』、『ゴースト・バスターズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『バットマン』といったブロックバスター映画の多くが1億ドルを超える総興行収入をあげ、続編製作はハリウッド全体の1割を占めるまでになった[20]。ヒットを見込める少数の作品に予算を集中投下する戦略は、大手スタジオによる製作本数の減少と製作費の著しい高騰をもたらし、平均的な製作費は1980年には940万ドルだったものが1990年には2,680万ドルまで上昇した。この製作費高騰には宣伝・広告費とスターの出演料の増大も影響した。マーケティング費用も1980年代の平均430万ドルから1990年には1,197万ドルへと増加した[20]

80年代の不動産ブームで全米各地に大型複合商業施設であるショッピング・モールが建設されると、そこに併設される形でマルチプレックス・シアター(日本のシネマコンプレックスにあたる)と呼ばれる同一施設に複数のスクリーンを兼ね備えた映画館が次々と開館した。これによりアメリカのスクリーン数は1980年の17,590から1990年には23,689にまで増加した[21]。1948年のパラマウント判決以来、大手スタジオは映画館の所有を抑制してきたが、ロナルド・レーガン政権下でメディア産業規制が自由放任主義な態度に変わったため、映画上映ビジネスへの再参入が可能となった。1980年代の終わりには大手スタジオがアメリカ国内で所有するスクリーンは約10%に上昇し、パラマウント判決以前にビッグ5が持っていたシェアに迫る程になった。配給と上映の垂直統合の復活は、大手スタジオの権力の増加を意味していた[22]

アメリカや日本西ドイツなどの先進国を中心に普及したビデオというメディアや有料のケーブルテレビの普及による映画鑑賞形態の多様化もスタジオにとって新たな収益源となり、ハリウッドの映画産業の復活を後押しした。アメリカのビデオデッキの保有世帯数は1980年には190万世帯にすぎなかったが、1989年には6,230万世帯にまで急増し、巨大なホームビデオ市場が形成され、レンタルビデオという新しい業態も全米に普及した[22]。1986年にはホームビデオの市場規模が約20億ドルと、映画館市場の規模約16億ドルを上回るまでに成長した[23]

映画館上映以外に巨大な付属マーケットが生まれたことは、アメリカのインディペンデント映画の成長にもつながった。大手スタジオが少数のブロックバスター映画に製作の比重を移したため、中規模予算の映画のニッチを埋めるため、独立系の製作・配給会社が参入する余地が生まれたことも大きかった。ニューヨーク大学出身のジム・ジャームッシュ監督『ストレンジャー・ザン・パラダイス』やコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』、同大学出身の黒人監督スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』のような作品が注目を集め、東海岸はインディペンデント映画の一大拠点となった[23]

この時期にはカルト映画の巨匠デヴィッド・リンチ社会派映画の巨匠オリバー・ストーンも有名監督の仲間入りを果たした。

シルヴェスター・スタローンアーノルド・シュワルツェネッガードルフ・ラングレンらアクションスターを起用した『ランボー』や『ターミネーター』等のアクション映画、『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』のようなホラー映画も人気を集め、作品が量産された。

1989年にはソニーコロンビア ピクチャーズを、翌年にパナソニックが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズなどを持つユニバーサル・ピクチャーズを買収するなど、新たな収益源である映像ソフト(ビデオ)権利の入手を目的の1つにした日本企業による大手スタジオの買収が相次いだ。

1990年代

80年代に見られたハリウッド映画の製作費の増加傾向は更に強まり、1990年の平均製作費2,680万ドルは2000年には5,400万ドルに、マーケティング費用も1990年の平均1,197万ドルから2000年には2,731万ドルへと増加した[20]。アメリカ国内の映画館のスクリーン数は1990年の23,689から2000年には37,396に増加したが、映画館そのものの数は90年代に入ると減少に転じ、1980年の13,100から2000年の7,421へとほぼ半減となった[21]

過去の歴史を見てもハリウッド映画はグローバルな産業ではあったが、1994年には国外市場での興行収入が国内市場のそれを初めて上回った。製作費の高騰もあり、国外市場は今まで以上に重要な存在になった[24]。第二次世界大戦以降やや停滞していた人材の国境を超える動きも活発化し、ピーター・ジャクソンポール・バーホーベンのような英語圏ヨーロッパアルフォンソ・キュアロンのような中南米ジャッキー・チェンジェット・リーサモ・ハン・キンポーアン・リージョン・ウー等、アジアからも多くの俳優及び監督がハリウッドに進出した。一方で税金対策や人件費抑制のために製作拠点をカナダなどの英語圏に移す動きも始まり、国内映画産業の空洞化が見られるようにもなった[25]

コンピュータグラフィックス(CG)技術の発展により、従来の技術的・費用的限界からの解放が進み、当時最新であったCGを本格的に使用した『ターミネーター2』や『ジュラシック・パーク』、『インデペンデンス・デイ』、『タイタニック』、『アルマゲドン』、『マトリックス』のようなスペクタクル大作が次々に製作され大ヒットを記録した。

アニメーション映画の復調も始まり、ディズニーは『リトル・マーメイド』の成功を皮切りに、『美女と野獣』、『アラジン』、『ライオン・キング』といった作品を次々とヒットさせることに成功した。ディズニーがセルアニメーションを刷新する一方で、1995年にはピクサーが世界初のフルCGアニメーショントイ・ストーリー』を成功させ、CGアニメーションは一気に主流の表現となった。

1990年代に入ると、1993年にウォルト・ディズニー・カンパニーミラマックスを、1994年にニュー・ライン・シネマターナー・ブロードキャスティング・システム(のちにタイム・ワーナーと合併)に買収される等、独立系映画会社をメジャーの傘下に置く流れが起き、メジャーとインディペンデントの境界線は曖昧になっていった。その中でクエンティン・タランティーノポール・トーマス・アンダーソンのようなビデオ世代の映画監督が出現した[26]

1990年代の半ばには、衰退の域に達していたスパイ映画が再び注目を集めるようになった。中でも『007 ゴールデンアイ』と『ミッション:インポッシブル』は世界的にヒットし、スパイ映画の代名詞的な存在となった。

2000年代

2000年代に入ると撮影・編集・配給・上映までをデジタルデータを使用して行うデジタルシネマへの転換が始まった。レッド・デジタル・シネマカメラ・カンパニーのRED等のデジタル映画カメラが用いられるようになり、映画館へはDCP(デジタルシネマパッケージ)で作品が届くようになった。

コンピュータグラフィックス(CG)技術の更なる発展により『グリーン・デスティニー』、『ハリー・ポッターと賢者の石』、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』、『トランスフォーマー』、『アバター』など大作が幾つも作られた。

デジタルアニメーションセルアニメーションよりも生産性が高く、興行収入ランキング上位に入り続ける快進撃を成し遂げた[27]。代表的スタジオはピクサーで、ディズニーと共同で『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』、『Mr.インクレディブル』、『ウォーリー』、『カールじいさんの空飛ぶ家』と名作を次々と生み出した。2001年にはアカデミー長編アニメ映画賞が設立される等、アニメーション映画の社会的地位も高まった。

これまで少数であった女性監督の増加も見られ、ソフィア・コッポラが『ロスト・イン・トランスレーション』でアカデミー脚本賞受賞、キャスリン・ビグローは『ハート・ロッカー』で女性初のアカデミー作品賞を受賞する等、注目を集めた。

2010年代

2008年の『アイアンマン』及び『ダークナイト』の興行及び評価の成功により、アメリカンコミック原作の映画が数多く制作されるようになり、マーベル・シネマティック・ユニバースは商業的に大成功を収めたが、2019年にはマーティン・スコセッシが「マーベルは映画ではない」と発言し、物議を醸した[28]マーベルコミックスに並ぶアメリカンコミックスの2大レーベルであるDCコミックスDCエクステンデッド・ユニバースを企画したが、一部の作品を除き商業的な成功を収めることはできなかった。

2009年にマーベル・エンターテインメントを買収したウォルト・ディズニー・カンパニーは、2012年には『スター・ウォーズ』の権利を持つルーカスフィルムを買収、2019年には『アバター』の権利を持つ21世紀フォックスを買収したことで、ディズニーは歴代興行収入上位を占める作品の権利をほぼ独占するようになった。自社作品ではセルアニメーションからCGアニメーションへの完全な転換を行い、『シュガー・ラッシュ』、『アナと雪の女王』、『ベイマックス』、『ズートピア』、『モアナと伝説の海』といった作品を次々と成功させた。

ビデオ・オン・デマンド(VOD)が進化し、ネットフリックスなどが独自の映画製作を始めた。2018年の『ROMA/ローマ』はアカデミー監督賞を受賞し、作品賞にもノミネートされたが、スティーヴン・スピルバーグは「ネットフリックスの作品がアカデミー賞にノミネートされるべきではない」と抵抗を示した[27]

大手スタジオがますますフランチャイズ作品やコミック・小説原作作品へ予算を集中させる中で、比較的低予算のアート映画20世紀フォックスが設立したサーチライト・ピクチャーズや、新興のA24NEONにゆだねられることになった。

2020年代

2020年に、アメリカ国内で新型コロナウイルス感染症が拡大すると、ほとんどの映画館が閉鎖を余儀なくされた。映画の新作イベントも縮小され、作品自体も動画配信サービスを通じて家庭で観る風潮が強まった[29][30]。2021年3月頃から映画館は再開され始めたが、入場客数は制限されたため映画館の赤字経営は深刻化。アメリカの中・小チェーンが倒産し[31]、最大手のAMCシアターズも2020年決算において46億ドル(約5000億円)と過去最大の赤字を記録した[32]。また、2022年9月7日には、映画館運営世界2位シネワールドが破産申請を行った[33]

2023年には『オッペンハイマー』と『バービー』という対照的な2本の映画が大ヒットを記録し、「バーベンハイマー」と騒がれたが[34]全米脚本家組合全米俳優組合が待遇改善やAI台頭への危機感から立て続けにストライキを敢行したことで多数の映画制作やプロモーションが停止、映画産業の復活にはブレーキがかかることになった[35]マーベル・シネマティック・ユニバースも人気に翳りが見られ、「スーパーヒーロー疲れ」という言葉まで出てくるようになる[36][37]等、映画産業の危機は未だに脱出口が見えない状態が続いている。

著作権の保護期間

著作権の保護期間は、他の国では公開後70年となる場合が多いが、米国の場合は少々複雑である。

以下の場合に米国での著作権が消滅し、パブリックドメインとなる。ただし、著作権保護制度や保護期間は国ごとに異なり、米国外では依然として著作権を有する場合がある。米国ではパブリックドメインであるが、日本では著作権の保護があるとして訴えた著名な例として、「ローマの休日」が挙げられる(最終的に日本でもパブリックドメインであることが確認された。ローマの休日#著作権問題も参照)。

上記以外は保護期間が公開後95年となる。

リニュー

1963年以前の作品は著作権標記が入っていても公開から28年以内にリニューを行わないと著作権が失効し、パブリックドメインとなる。リニューを行った場合は保護期間が公開後95年に延長される。リニューが行われた作品のパッケージの著作権標記は、例えば、以下の様になる。

Copyright (C) 1963 Renewed (C) 1991 Wikipetan Films Corp. All Rights Reserved.

1963年以前の作品でパッケージの著作権標記にRenewの文字が見当たらないものはパブリックドメインの可能性が高い(但し、パッケージにRenewの標記があっても実際はリニューされずにパブリックドメインとなったものも多い)。

会社によって姿勢に差があり、20世紀フォックスユニバーサルコロンビア、等は、まめにリニューを行っているのに対し、ワーナーパラマウントMGMユナイテッド・アーティスツ、等はリニューを行わなかったためにパブリックドメインとなった作品が多い。

ギャラと出演者の年収

ハリウッド映画のギャラは、ノーギャラから20億円越えまで極めて幅広い。 キャリアの浅い俳優のギャラは相場は、中規模映画(予算5000万ドル以下)の主演で65000ドル、大規模映画(予算1億ドル以上)の主演で10〜30万ドルである。そのため、超大作映画のメインキャストであっても、家賃が払えないほど生活の苦しい人が大半である[38]。 また、出演者の最低賃金は、組合によって決められており、2021年現在、予算200万ドル以上の映画においては、1日1056ドル、1週間3664ドルである。[39]なお、予算ごとに最低賃金が決められている。最も低いのは、ショートフィルムであり、最低賃金は1日0ドルである。[40] 2010年代以降、大物俳優のギャラが低下し、高額なギャラを受け取る俳優が減少傾向にある。以下が有名な俳優のギャラ相場であるが、この値は、予算100億を超える映画で単独主演した時の相場(定価)であり、彼らであってもB級映画では10万ドル以下のギャラとなることも少なくない。

また、ハリウッド俳優の年収は年による差が激しい上、コマーシャルの収入のない人が多く、また、撮影日数を考えると1年に何本もの映画に出演できるわけではないため、ミュージシャンやTV司会者の収入には到底及ばないうえ、日本の俳優よりも総じて収入が低い。なお、fourusの公表する収入ランキング[41]は、マネージャーエージェント、パブリシスト、ビジネスマネージャー、組合、アシスタント等への支払いの前の金額であるため、実際の年収はその半分程度となる。

2200万ドル:ドウェイン・ジョンソン 

2000万ドル

1700万ドル:マーク・ウォールバーグ

1500万ドル

1200〜1400万ドル

1000万ドル

500〜800万ドル

注釈

  1. 2022年の映画『NOPE/ノープ』では『動く馬』の連続写真こそが映画の起源であると語られている。
  2. アメリカでは「ニュー・ハリウッド」「ハリウッド・ルネサンス」「ポスト古典ハリウッド」等とも呼ばれる。

出典

文献

関連項目

外部リンク

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