米良市右衛門
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寛文2年(1662年)、熊本藩の下級武士の家柄に生まれる。元禄14年(1701年)11月、父勘助の家督300石を相続し、御番方(ごばんかた)に召し加えられ、御小姓組となる。翌15年(1702年)、3代熊本藩藩主・細川綱利の御供を命じられ、江戸へ上る。
江戸着任後間もない同年12月24日、吉良邸討ち入り事件があり、主君浅野内匠頭の仇を討った赤穂義士[注 1]一党が、大名四家[注 2]に分散し御預けとなった。大石内蔵助以下17名は、熊本藩細川家の江戸下屋敷に預けられる。場所は、小石川後楽園に隣接の東京ドーム周辺である。
赤穂義士[注 1]切腹に際し主君・細川綱利は「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」として、17名の介錯人を選定している。大石内蔵助に対しては重臣の安場一平を当て、それ以外の者たちにも御小姓組から介錯人を選んだ。米良市右衛門は、赤穂義士の最長老であった堀部弥兵衛金丸[注 3]の介錯人を命じられている。
当時、藩主から介錯人を命じられることは家門[注 4]の名誉とされ、介錯には剣技に秀でた武士が選ばれた。介錯が不的確であれば、切腹を行う武士に対し無用の苦痛を与えることになる。