東京府東京市(現・東京都区部)で出生した[2]。東京府立第五高等女学校から日本女子大学校英文科に入学[1]、元来の地理好きに加えて、女学校の地理教員の影響を受け、その後の方針が地理学に定まった[4]。大学の公開講座で、前もって用意していた質問を講師にぶつける熱心さで、東京帝国大学の研究室で学ぶ異例の許可を得た[2]。当時の帝国大学は、女子の正規入学は認められていなかったために女学生姿は目立ち、男子学生たちから冷笑を浴びる中で勉強を続けた[2]。1939年(昭和14年)に日本女子大を中退後[5]、親の強いる花嫁修業を拒んで独学を続けた[4]。
戦時中は東亜研究所に就職した。地理好きにもかかわらず、ヘビが嫌いで野外を歩くのが怖く、体力的にもフィールドワークは無理と考え、資料中心の研究に没頭した[4]。南方の資源や風土病の資料を整理中、次第に病気と地理と気象の関連に興味を抱いた[4]。終戦後の1946年(昭和21年)に国立公衆衛生院を経て、翌1947年(昭和22年)に気象研究所へ入所した[1]。その傍らで医学部研究生として気象医学に取り組み、病気と気候の関係の解明に努めた[2]。
1957年(昭和32年)、「脚気病の質病地理学的研究」で医学博士の学位を取得した[1]。その翌々年の1959年(昭和34年)、病気による死亡の季節変化と文化の関係の究明の成果として「季節病カレンダー」を発表[2]。公衆衛生面にも広く利用が可能であり、利用価値が高いとして注目を集めた[6][7]。日本国外でも、1956年にブラジルの国際地理学会の副議長を務めたことを始め、各国の学会で論文発表を精力的に行い、会の運営にも携わった[4]。
1965年(昭和40年)、気象研究所の主任研究官となり、病気や死亡の原因と気候との関係を明らかにする気象医学の研究を続けた[1]。1977年(昭和52年)に医学地理研究所の所長、1985年(昭和60年)に女子栄養大学教授を務めた[5]。1981年(昭和56年)に「季節病カレンダー」により、日本気象学会の学術賞である藤原賞を受賞した[1]。
こうした研究の傍ら、学究の世界の性差別の解消にも取り組んだ[2]。研究グループに所属していながら補助役ばかりで論文発表に名前の載らない女性研究者への冷遇に対して、女性の懇談会を組織、異なる分野の女性科学者にもエールを送った[2]。男性と同等の昇給昇格から、女性トイレの設置に至るまで、女性研究者の待遇改善への取り組みは多岐に及んだ[2]。研究至上主義では科学は成り立たないと主張して、安保反対闘争デモにも積極的に参加した[2]。
夫婦別姓の実践者でもあり、名刺には夫の姓も共に重ねていた[2]。1989年4月、肝不全のため、東京都文京区の東京日立病院で、満70歳で死去した[3]。