粟田口国吉
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概要
粟田口則国(あわたぐちのりくに)の長男であるとされている[1][2][注釈 1]。北条時頼に召されて鎌倉へ下り、その時には山内に住して「国高」と銘を切っていたとされている[1]。しかし、時頼が国吉銘の懐剣を所持していたところ、色々な奇瑞があったので「国高」から元の国吉へと改めさせてたという説がある[1]。年紀を切った作例として弘長2年(1262年)から弘安7年(1284年)のものがあるが、作刀当初でいえば宝治年間(1247年~1249年)に遡るものもあると推測される[3]。
国吉も同派の刀工で短刀の名手と言われた粟田口吉光ほどではないが、短刀の作刀が多く、対して太刀などの作例は少ない[4]。また、剣の作刀も上手だったようであり、両鎬造りで頭がかさ張らない上品な姿である[5]。剣で大きいものでも26センチメートルが最長であり、20センチメートルをわずかに超えたようなものも存在する[5]。