紀伊国分寺
和歌山県紀の川市東国分にある新義真言宗の寺院
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紀伊国分寺(きいこくぶんじ)は、和歌山県紀の川市東国分にある新義真言宗の寺院。山号は八光山、院号は醫王院。本尊は薬師如来。
| 紀伊国分寺 | |
|---|---|
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創建時の講堂跡と現・本堂 | |
| 所在地 | 和歌山県紀の川市東国分682 |
| 位置 | 北緯34度16分7.60秒 東経135度20分21.00秒 |
| 山号 | 八光山 |
| 宗派 | 新義真言宗 |
| 本尊 | 薬師如来 |
| 創建年 | 奈良時代 |
| 開基 | 聖武天皇 |
| 正式名 | 八光山醫王院国分寺 |
| 文化財 | 紀伊国分寺跡(国の史跡) |
| 法人番号 | 5170005002937 |
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、紀伊国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である紀伊国分寺跡(国の史跡)・紀伊国分尼寺跡についても解説する。
概要
歴史
聖武天皇の詔による建立とされるが、創建の記録は残っていない。『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に紀伊国を含む26ヶ国の国分寺に対する法具頒布の記事がある[1]。また『日本三代実録』には元慶3年(879年)2月22日に「紀伊国金光明寺」が火災により焼失したとある[1]。しかしその後すぐに復興したものと見られ[1]、『延喜式』には紀伊国分寺料として20,000束の記載がある[1]。その後平安時代後期までは存在が確認されるが、中世に入ると衰退し文献への登場はなくなる[1]。
一方、現・国分寺の経緯を伝える史料では、寛永4年(1628年)に無本寺から根来寺末になったといい、寛延4年(1751年)に藩寺社奉行の直轄下に入ったという[1]。また、浅野氏時代には寺領4石5斗、徳川氏時代には3石2斗が与えられていたという[1]。
昭和3年(1928年)2月7日、国の史跡に指定された。その後昭和48年(1973年)から昭和50年(1970年)の発掘調査によって寺域が二町四方(約218メートル四方)と判明し、伽藍配置・規模が確認された。その後、昭和60年(1985年)に国の史跡に追加指定された。
境内
紀伊国分寺跡
紀伊国分尼寺
文化財
国の史跡
- 紀伊国分寺跡 - 昭和3年2月7日指定。
紀の川市指定有形文化財
- 本堂