紀時文
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村上朝にて内記を務め、加賀介・内蔵助を経て、一条朝前期に大膳大夫を務める。藤原道長執政期初頭の長徳2年(996年)ころに70歳を超す高齢で没した[2]。
書に秀で、村上朝において月次屏風の色紙形を書いたほか[3]、安和元年(968年)冷泉天皇の大嘗会に使用する屏風の色紙形を揮毫するなど、小野道風の没後は兼明親王に次ぐ能書として尊重された様子が窺われる[4]。
天暦5年(951年)大中臣能宣・清原元輔・源順・坂上望城とともに撰和歌所寄人に選ばれ、梨壺の五人の一人と呼ばれる。『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の撰集にあたった。歌の力量は父・貫之には及ばなかったようで、「ただ父が子といふばかり」と評された[5]。勅撰和歌集には『拾遺和歌集』以下に5首が入集されているに過ぎず、家集も伝わっていない。恵慶・清原元輔・源順・大中臣能宣といった歌人と交流があった。
国文学者の上原作和は藤原為時の娘(後の紫式部)の最初の夫だとする説を唱えている[6]。ただし、紫式部の生年については諸説あるものの、天禄元年(970年)以降とされているため、この説が正しければ40歳以上離れた夫婦関係となる(紫式部#生没年)。