納所文子
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1896年、納所弁次郎の長女として東京に生まれる。
1906年(明治39年)頃、天賞堂扱いのアメリカコロムビアにレコードを吹込んだことを皮切りに、初期の日蓄(日米蓄音器商会→日本蓄音器商会)において数々の唱歌レコードを吹き込み、同社の「ドル箱」[1]的存在となる。また、同時期には東洋蓄音器(ラクダ印オリエントレコード)にもレコードを残している。文子が吹き込んだレコードの殆どは、父弁次郎のピアノ伴奏によるものである。
レコード歌手としての活動の傍ら、1910年(明治43年)4月に東京音楽学校選科に入学し、唱歌とピアノを履修。1915年(大正4年)3月に修了。[2]
東京音楽学校修了後、ピアノを研究するためアメリカに渡り、米子を出産。
1920年代に東京の実家に戻った後は、弁次郎とともに子どもたちにピアノを教える。そこには、マンドリン奏者の比留間賢八・きぬ子父娘が顔を出す他、慶応の学生服姿の増永丈夫少年(後の藤山一郎)もピアノを習いに来ていたという。
1927年(昭和2年)~1928年(昭和3年)にかけて、10数年ぶりに日蓄から6面のレコードを新規吹込みし発売する他、1926年(大正15年)~1929年(昭和4年)にかけてはラジオに出演し、18時台の「子供の時間」に独唱・ピアノ伴奏を披露した。(1927年(昭和2年)10月3日、1928年(昭和3年)1月18日には、弁次郎・米子とともに親子三世代で出演を行っている。)
戦後は鎌倉に移住し、ピアノをやめて小唄・長唄を始める。西洋音楽関係者との交流は、唯一比留間きぬ子とのみであったという。
