細井和喜蔵
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幼いときに両親と別れ、13歳の時には唯一の保護者だった祖母が死に、学校をやめて近くの丹後ちりめんの機屋の小僧となる。1912年ごろ大阪に出て、西成郡(現在の此花区)にあった紡績工場で織機の見習い職工として勤める。まもなく、草創期の労働運動にも参加するようになる。1920年に上京して、紡績工場に勤めるが、当時の労働運動のなかのいわゆる「アナ・ボル論争」の中で、実際の運動からは距離をおくようになる。そのころから雑誌『種蒔く人』の人たちと知り合い、文学の道に向かう。
1924年、藤森成吉の斡旋で紡績工場の現実をルポルタージュにした『女工哀史』を雑誌『改造』に発表し、翌1925年7月、単行本として改造社から刊行し、注目を浴びる。和喜蔵本人の職場経験あればこそのリアルな観察、同輩、退職者などからの聞き書き、妻としをの職場経験や、としをとの討論などが生かされ、内容は多岐にわたっている。
『女工哀史』を書きあげたあと、その小説版として『奴隷』と『工場』、さらに戯曲の原稿を書き終えたが、それはまだ初稿の段階であり、原稿を推敲し、修正を加える機会をもつことがないままに、1925年8月18日、急性腹膜炎にて死去した。
『女工哀史』に描かれた内容の多くを提供し、執筆に向かう和喜蔵を支えたのも妻としをであった。しかし、和喜蔵の死後、長男(暁)も生後1週間で死亡し、内縁の妻であったとしをが印税を受け取ることはなかった。
没後
著書
関連文献
- 高井としを『わたしの「女工哀史」』(草土文化、1981年、ASIN B000J7ZEP0)、のち岩波文庫(2015年、ISBN 978-4003811610)
- 中村政則『労働者と農民―日本近代をささえた人々』(小学館、1998年、ISBN 978-4-09-460110-7)
- 細井和喜蔵没後百年記念事業実行委員会 『「女工哀史」から百年 ― 今も、和喜蔵の声が聞こえる』(細井和喜蔵没後百年記念事業実行委員会、2025年)