細谷而楽

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細谷而楽

細谷 而楽(ほそや じらく、1878年明治11年〉3月30日[1][2] - 1940年昭和15年〉11月16日[1][2])は、日本彫刻家。本名・三郎[1][2]

細谷而楽生家跡(前橋市城東町1丁目)

1878年明治11年)、群馬県一毛村(現・前橋市城東町1丁目)に生まれる[1][2]。細谷家は前橋藩士の家柄だった[1][2][3]。祖父・登代平の時に廃藩となり、父・桟平は製糸業質屋を営んでいた[1][2]。而楽は桟平・まきの三男として生まれた[2]。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶが、中退して上京[1][2]1897年(明治30年)9月、東京美術学校予科(現・東京藝術大学)に入学する[1][2]。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する[1][2]。同期の高村光太郎(光雲の子息)と親しく交流し、1902年(明治35年)7月に同校を卒業[1][2]

1907年(明治40年)の第1回文展に石膏像《冷静》を出品して入選を果たす[3]1908年(明治41年)東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)教諭となった[1][2][3]1909年(明治42年)、光雲の推薦により文部省古社寺保存会に勤務し奈良へと移る[2][3]法隆寺唐招提寺などが所蔵する仏像などの古美術の修復を手がけた[1][2][3]。特に乾漆造に関しては卓越した技術の持ち主だった[1][2][3]日本美術院に籍を置いた[1][2]

前橋公園彰忠碑。

代表作としては、新薬師寺十二神将のうち、失われていた1体(寺伝・波夷羅大将像)を補作[1][2]前橋公園の彰忠碑の「とび」像は戦時中の金属供出を免れ、現存[1]。妻フクの兄、中島秋圃日本画家である[要出典]

1940年昭和15年)に大阪日本生命病院で死去[1][2]。法名は技巧院通神而楽居士[1][2]。墓所は前橋市三河町の正幸寺[2]

エピソード

1934年(昭和9年)、法隆寺に用があり通っていた而楽は、食堂(じきどう)の隅に土とも木とも分からない、高さ七尺程で腰以下がやたら太い不恰好な仏像を見つけた[4]。欠けた部分の奥に何かあることから、佐伯定胤管主に立会ってもらい、その上層を剥がしていくと、近世の間に合わせの修理の下から天平彫刻が出現した[4]。而楽は1年ほどをかけてこの吉祥天像を修復し、1935年(昭和10年)1月15日に供養が行われた[4]。1936年(昭和11年)には旧国宝(現在の重要文化財)に指定され、現在は法隆寺大宝蔵院に安置されている。

門下

  • 加藤翠園(本名・義行)[2]

代表作

脚注

関連文献

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