結城林蔵

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生誕 1866年慶応2年
死没 1945年昭和20年
職業 明治、大正、昭和初期にかけて、現在の東京科学大学(元東京工業大学)、東京藝術大学東京工芸大学、各校の前身校にて写真技術を教授
結城林蔵
生誕 1866年慶応2年
死没 1945年昭和20年
職業 明治、大正、昭和初期にかけて、現在の東京科学大学(元東京工業大学)、東京藝術大学東京工芸大学、各校の前身校にて写真技術を教授
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結城 林蔵(ゆうき りんぞう、1866年1945年[1]は、明治・大正・昭和期にかけての日本の写真技術家(製版術・写真工芸[2][3])。

『幕末明治の写真師 総覧』によれば、新潟県六日町(現在の南魚沼市)の出身である[4]。昭和9年版(1934年)の『日本人事名鑑』記載の「結城林蔵」の項によれば、慶応2年2月(西暦1866年3月下旬または4月上旬)新潟県の久保田勘治の二男として出生し、明治19年(1886年)同県農業学校を卒業。結城義節の養子となり養父義節の二女とめと結婚して(養子・結婚の時期は不明)結城家の家督を明治28年(1895年)に相続している[5]

結城の卒業した新潟県農業学校がいかなるものかは不明。因みに、旧制新潟県立農林学校は1903年の創立とされていて該当しない[6]。ところが、『幕末明治の写真師 総覧』によれば、1984年(明治17年)18歳の頃に、長岡町(現在の長岡市)に移転してきた県営農業試験所兼農業教育機関である「新潟勧農場」に入学、卒業後の1888年(明治21年)に参謀本部陸地測量部に入り、そこで写真および製版技術を習得したとある[4]。また、同『総覧』によれば、新潟勧農場とは、後の新潟県農学校(農業学校ではない)であり、現在の新潟県農業総合研究所[7]であると紹介している[4]

経歴

東京高等工業学校と欧州留学

1900年、当時蔵前にあった東京高等工業学校(現東京科学大学理工学系)で写真技術を講じ、東京高等工業学校助教授の身分で1902年11月29日より[8]1905年3月25日まで[9]、文部省留学生としてドイツおよびオーストリアで写真技術を学ぶ[10][11]

東京美術学校

帰国後、東京高等工業学校教授[12]を経て、1914年、上野の東京美術学校(現東京藝術大学)に写真製版科が新設されたのに伴い、同校教授同科科長に就任する[13]。エッチングなどの指導を行った[14]。同年、東京写真研究会審査員となる[15]

小西写真専門学校

1923年、小西写真専門学校(現東京工芸大学)設立に当たって初代校長に就任する[16]

著書

外部リンク

脚注

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