統一世界ヘビー級王座

From Wikipedia, the free encyclopedia

創立 1905年5月4日
最多保持者エド・ルイス(4回)
最長保持者ジム・ロンドス英語版(2628日)
統一世界ヘビー級王座
詳細
創立 1905年5月4日
統計
初代王者 ジョージ・ハッケンシュミット
最多保持者 エド・ルイス(4回)
最長保持者 ジム・ロンドス英語版(2628日)
最短所持者 スタニスラウス・ズビスコ(45日)
最年長 スタニスラウス・ズビスコ(46歳15日)
最年少 ジョー・ステッカー(22歳103日)
世界で最初の世界王者になったジョージ・ハッケンシュミット。
最後の王者になったルー・テーズ。
王座最多獲得と王者最長君臨記録を持っていたエド・ルイス。
王座保持期間が最も長かったジム・ロンドス。

統一世界ヘビー級王座(とういつせかいヘビーきゅうおうざ、The World Heavyweight Championship)は、1905年5月4日に創設された最初のプロレスキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの王座。当時は世界最高峰の選手権者の称号であった。

王座戦は1948年にNational Wrestling Alliance(全米レスリング同盟)が結成されるまで、さまざまなプロモーションの間で行われていた。その後、王座の系譜は決して直系ではないのであるが、NWA世界ヘビー級王座歴代王者としてNWAによって認識されていく[1]

世界ヘビー級王者として最初に認定されたのはジョージ・ハッケンシュミットである。ハッケンシュミットはヨーロッパからの世界王者として、1905年5月4日にニューヨーク州ニューヨークでアメリカ王者のトム・ジェンキンスを破って世界王座を統一[2]

世界王座は51年にわたり繰り広げられたとして、最後に選手権として認定されているのは1957年のルー・テーズエドワード・カーペンティアの一戦(詳しくは「世界ヘビー級王座(オマハ版)」を参照)で両者の試合は無効試合になる。

1901年、ジョージ・ハッケンシュミット世界グレコローマン・ヘビー級王座英語版決定トーナメントで優勝して世界で最初の世界王座を戴冠。ハッケンシュミットはパリで開催された幾つかのトーナメントや同じ年にサンクトペテルブルクハンブルクエルバーフェルトベルリン(以上「ドイツ」)の大会でも優勝。

1902年9月4日、ハッケンシュミットはリバプールでトム・キャノンからヨーロッパ・グレコローマン・ヘビー級王座を獲得。

1904年1月30日、ロンドンでアーメド・マドラリを破り、世界ヘビー級王者であるという認定を勝ち取る。

1905年5月4日、ハッケンシュミットはニューヨーク州ニューヨークでアメリカ・キャッチ・ヘビー級王者のトム・ジェンキンスを破り、北米でも認定された世界ヘビー級王者に君臨[3]

1908年4月3日、フランク・ゴッチはハッケンシュミットと対戦してハッケンシュミットが試合を途中放棄してゴッチが獲得。ゴッチは1913年4月1日に引退するまで5年近く王座を保持していた[4]。これはブルーノ・サンマルチノ、ジム・ロンドス、ルー・テーズバーン・ガニア(すべて7年以上、王座を保持)、ボブ・バックランド(6年近く王座を保持)に次ぐ、史上6番目に長い世界ヘビー級王者であった[5]。その後、ゴッチは王座決定戦の参加選手について、ガス・ショーンライン(アメリカス)とフレッド・ビールを推挙。

1914年3月13日、ミズーリ州カンザスシティで両者は対戦してアメリカスが勝利して第3代王者となった。5月7日、ミズーリ州カンザスシティでスタニスラウス・ズビスコが勝利してズビスコが第4代王者となった。その後、ズビスコはアメリカを出国して王座は空位となっている。

1915年1月8日、ゴッチの門下生であるチャーリー・カトラー英語版はアメリカ・ヘビー級王者を主張するBFローラーと対戦して、これを破ると2月にゴッチが保持していた王座を主張。その後、ニューヨーク州ニューヨーク、ネブラスカ州オマハアイオワ州デモインイリノイ州シカゴなどの体育委員会で同王座に認定されている。7月5日、ゴッチの観戦する中でアメリカ・ヘビー級王者であるカトラーはジョー・ステッカーと対戦。ステッカーがカトラーを破り、世界最初に広範に認定されたヘビー級王者になった[6]

1916年12月11日、オマハでのジョン・オリン英語版戦でステッカーが試合放棄によるカウントアウトによってオリンが奪取したとして、オリンは防衛戦を開始して、王座は2つ存在することになった。

1917年4月9日、ステッカーはオマハでアール・キャドック英語版と対戦して破れる。5月2日にはシカゴでエド・ルイスがフランク・ゴッチがレフリーを務めるなかでオリンを破った。ルイスのほうはウラデック・ズビシュコ英語版と1917年から1919年の間に何度もタイトルを反復し合っている。6月5日、特にズビスコはサンフランシスコでの対戦ではノンタイトルマッチかつ3本勝負で1本のみでの勝利であったが王者を主張。7年4日、ボストンでの再戦ではルイスが勝利。12月22日、ニューヨークで開催された国際トーナメント決勝で両雄が激突してズビスコが勝利して王者を主張。

1918年2月8日、デモインでキャドックと対戦してキャドックが勝利。ところがズビスコは、その後も王者を主張。5月19日、ニューヨークでルイスに敗れる。6月21日、ルイスもデモインでキャドックに敗れているが王座を主張し続けた。

1919年3月21日、ニューヨークでズビスコがルイスを破って王座を奪取。したがってどの選手権が公式と見なされたか不明瞭で、ズビスコは3回の非公式王者、ルイスは2回の非公式王者になっていた。5月9日、ルイビルでステッカーが非公式王者のズビスコを破る。

1920年1月30日、ニューヨークでステッカーが非公式王者のルイスを破ることで、タイトルを統一することができた。

1921年1月14日、ステッカーがキャドックを破る。その間にキャドックはマーティン・プレスティナと選手権を行っており、プレスティナも王者を主張し続けていた。

1925年4月15日、スタニスラウス・ズビスコは王者のウェイン・マンを破って獲得。しかし、マンはミシガン州とイリノイ州で世界ヘビー級王者として認定され続けた[7]。5月30日、ズビスコもセントルイスでステッカーに敗れる。

1926年3月11日、ステッカーはボストンでの試合直前に予定されていた挑戦者のジェーク・ブリスラーがジョー・マルセウィッツに交代したことを不服として試合を拒否。これに対して同地のプロモーターであったポール・バウザーは不戦勝としてマルセウィッツを王者に認定したが、ニューヨークのプロモーターであるジャック・カーリーがステッカーを引き続き王者として認定し続けた。8月2日、タルサでルイスがマルセウィッツを破る。

1928年2月2日、インディアナ州ミシガンシティでマンはルイスに版世界レスリング・ヘビー級選手権(ミシガン州 / イリノイ州)で敗れる。2月21日、王座はルイスがステッカーを破ったことで解決[8]

1929年1月4日、ガス・ソネンバーグはルイスを破って獲得。その後、管理団体のNational Boxing Association(全米ボクシング協会)のプロレス部門により、世界王者であるという認定は、実際のタイトル候補にふさわしい対戦者と王座戦を行っていると認識できなかったとして、7月に全米20州以上の体育協会とともにソネンバーグから王座を剥奪[9]。王座決定戦でジム・ロンドス英語版を破ったディック・シカット英語版が1929年8月23日付けで王者に認定される。ところがソネンバーグは引き続き防衛戦を行っていた。

1930年1月、NBAから王座決定トーナメントへの出場を通告されているが、これも拒否する。12月10日、ソネンバーグはロサンゼルスでエド・ダン・ジョージ英語版と対戦して敗れる。

1931年4月13日、ルイスが再び獲得。ルイスは当時、AWA世界ヘビー級王者(ボストン版)でもあった。5月4日、カナダのケベック州モントリオールでのアンリ・ドグラー戦で反則負けを喫して王座を失う。しかし、ルイスはカリフォルニア州で引き続き世界レスリング・ヘビー級王者として認定されていた。11月2日、ルイスはシカゴで王者を主張していたズビスコ(世界レスリング・ヘビー級王者を広範にわたり、認定されていたと主張)を破ってイリノイ州でも認定されて論争を終わらせた。

1932年3月2日、フィラデルフィアでロンドスがシカットを破る。これがニューヨークとペンシルバニアの州体育委員会、旧NWAから世界ヘビー級王座(旧NWA版)として認定される。

1933年4月、カリフォルニア州でもチャンピオンとして認定される。一方のルイスは空位であったニューヨーク州体育委員会認定世界ヘビー級王座を1932年10月10日にジャック・シェリーを破って獲得[10]。その後、ジム・ブラウニングが勝利すると、こちらもニューヨーク州とペンシルベニア州の州体育委員会によって、5月にはカリフォルニア州でも、王者として認定される[11]

1934年6月25日、世界ヘビー級王者(旧NWA版)のロンドスは、ニューヨークでニューヨーク州体育委員会認定世界ヘビー級王者のブラウニングを破った。

1935年2月27日、予定された防衛戦に現れなかったため、カリフォルニア州体育委員会によって剥奪されて空位となった。開催された国際トーナメントにも出場できなかったため、5月にロサンゼルスでは正式に承認が取り消される。王座はロサンゼルス版としてヴィンセント・ロペスが、7月24日に行われたトーナメント決勝でマンマウンテン・ディーンを破って認定されることで、またしても世界王座が分裂する。6月27日、ダノ・オマホニーがロンドスをボストンで破り、7月30日にボストンでジョージを破り、AWA世界ヘビー級王座(ボストン版)も獲得して誰もが認める世界統一レスリング・ヘビー級王者になる[12]

1936年3月2日、シカットはニューヨークでオマホニーを破ったが、AWA世界ヘビー級王座(ボストン版)はオマホニーを王者として認定し続けて、「議論の余地のない」ことであった世界王座をさらに分裂させた。4月25日、デトロイトでの世界選手権でアリ・ババがニューヨーク州体育委員会認定世界ヘビー級王座を獲得したが、4月29日にニューヨーク・タイムズはババがニューヨーク州体育委員会によって王者としては認められないことを発表。5月5日、マディソン・スクエア・ガーデンでババとシカットが王座を争うことが発表された。試合はババが勝利して王者として認定された[13][14][15]。6月12日、ニューアークでデーヴ・レビン英語版が挑戦して反則勝ちを治める。ババは引き続き王者を主張するが、6月26日にコロンバスでエベレット・マーシャルと選手権を行い敗れる。8月19日、レビンは世界ヘビー級王者(ロサンゼルス版)であったロペスを破って王座統一している。9月28日、ディーン・デットン英語版がリングマガジン誌で真の世界ヘビー級王者として紹介される。これはフィラデルフィアでトーナメントが開催されて、決勝でレビンを破って優勝したためである。ところはカリフォルニア州では試合はワンフォールであるため王座認定上不服があるとし、レビンが引き続き王者として認定されている。9月30日、ロサンゼルスでレビンはビンセント・ロペスに敗れた。

1937年6月29日、ブロンコ・ナグルスキー英語版がリングマガジン誌によって誰もが認める世界ヘビー級王者であると認められてを獲得したと紹介された後[16]、8月11日にロサンゼルスでロペスを破り世界王者を統一した。

1938年11月18日、ロンドスが獲得。1947年1月28日に世界ヘビー級王者のまま引退[17]。ロンドスは、この日にアルバート・ミルズ卿との防衛戦が最後の試合となった。ところがロンドスの引退後、世界ヘビー級王座は世界ヘビー級王座(旧NWA版)、NWA世界ヘビー級王座、ロサンゼルス・オリンピック・オーディトリアム世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)とまたしても分断の憂き目に会う。

1952年5月21日、テーズが3つ目のタイトルである世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)を獲得。これでテーズが誰もが認める世界ヘビー級王座になるための3つの王座を統合した。それは1948年7月20日にビル・ロンソンを破っての獲得した世界ヘビー級王座(旧NWA版)[18]、ロンドスが返上後、空位となっていた王座の後進とされるNWA世界ヘビー級王座(1949年11月27日付けで授与された)[19]、さらに、世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)である。最後の世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)はロンドスの引退後、ロサンゼルスでルーブ・ライト、ジョージ・ベッカー、エンリケ・トーレス、バロン・ミケーレ・レオーネと渡り歩くが、テーズがレオーネを破って獲得[20]

1956年3月15日、ホイッパー・ビリー・ワトソンがカウントアウトでテーズを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得[21]。11月9日にテーズはワトソンからNWA世界ヘビー級王座を取り戻す。

1957年6月14日、イリノイ州シカゴでのエドワード・カーペンティアとの防衛戦で背中を負傷して試合を続けることができなくなり、防衛戦は無効になってテーズは破れることになった。NWAの規則では試合が無効との判定では王座を移動することはできないとなっていたため、カーペンティアはNWA世界ヘビー級王座はテーズに譲ったが、ネブラスカ州オマハとマサチューセッツ州ボストンで世界ヘビー級王座NWAのオマハ版)として認定され続けた後、カリフォルニア州ロサンゼルスのワールド・ワイド・レスリング・アソシエイツ(WWWF)によって世界ヘビー級王者として認定された。こうして統一世界ヘビー級王座は終了して今日まで完全に統一されることはない。なお、世界ヘビー級王座(オマハ版)のは、後にAWA世界ヘビー級王座と統合された。7月24日、テーズはカナダのケベック州モントリオールで行われたタイトルマッチは反則となるが、再戦ではカーペンティアを破った。7月24日、王座は非公式であるが封印されて[22] 、その系譜はNWA世界ヘビー級王座に引き継がれた。

タイトル履歴

系譜

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI