網走五郎
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網走五郎の特筆性はソ連(現・ロシア)が実効支配している北方領土へ泳いで渡り、ソ連政府に北方領土返還の抗議文を手渡したことである。抗議文の内容は以下の通り。
私は単身、泳いで日本からやって来た網走五郎と言う者です。年齢は三十二歳。私は貴国に亡命したくてやって来たのではありません。北方領土返還の抗議に来たのです。歯舞・色丹・国後・択捉の四島は日本固有の領土です。早急に返還して下さい。1945年8月、日本は広島・長崎に原爆攻撃を受け、瀕死の状態になっていたが、貴国はこの時、日ソ不可侵条約を一方的に破って日本攻撃を開始したのです。当時、日本は、日・独・伊三国軍事同盟を結んでいたので、貴国がヒトラードイツ軍に押しまくられていた時、日本も貴国に攻撃を仕掛け、貴国を敗北に導くことができたにもかかわらず、日本は条約を守って攻撃を仕掛けなかったのです。ところが貴国は、日本弱しとみるや条約を踏みにじって日本攻撃を開始し、千島・樺太を占領した。その後未だ占領をし続け、日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島すら返還しないのは、畜生にも劣ると言わねばなりません。日本から直接攻撃を受け、大きな被害を被ったアメリカですら、五年前には沖縄を返還しています。貴国も日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を早急に返還すべきです。私はこの四島が返還されるまで、当分貴国に置かせてもらいます。私の後ろには一億一千万人の日本国民がついています。 ソ連政府殿 — 網走五郎
略歴
- 1963年 - 札幌西高等学校卒業後、酪農学園大学に入学したが一年で中退。その後東京教育大学を受けるが2度不合格。進学を諦めてプロボクサーになるため上京し、協栄ジムに入門した。しかし、視力が悪かったため、プロになるための資格を満たせずにこれも断念した。
- 1969年1月6日 - 天井桟敷に入団、主催の寺山修司から「網走五郎」の芸名を名付けられる。
- 1977年7月27日 – 北方領土返還を訴えて、自力で泳ぐ[3][2]。途中で海上保安庁の巡視船に捕捉されるも、中間ラインを突破し、貝殻島に着く。間もなくソ連の国境警備隊に逮捕され、ユジノサハリンスクに連行・留置される。
- 1977年12月13日 – ソ連当局より日本側に身柄を引き渡される[4][5]。帰国後出入国管理令違反容疑で書類送検された。
- 1980年7月20日 - 尖閣列島の魚釣島へ手漕ぎボートで渡り、同地で1ヶ月ほど生活をする[6]。
- 1983年4月1日 - 沖縄県護国神社入社、同時にボクシングトレーナーとして働き始める。2010年3月31日定年退職。