乾隆29年8月15日に生まれた。出生時は双子であったが、双子の兄は早世した。
生母は索綽羅氏で、左都御史観保の娘である。
綿億は聡明で機敏、性格は物静かで内省的であり、経書や史書にも精通し、書法にも優れていた。乾隆帝はこれを大いに賞賛し、自らの命で綿億を尚書房に入れて学ばせた。
また、父である永琪が若くして亡くなり、その六人の子の中で成人できたのが綿億ただ一人であったため、乾隆帝は幼くして父を失った彼を特に憐れみ、寵愛した。
綿億は乾隆49年(1784年)にベイレ(貝勒)に封じられた。
嘉慶4年(1799年)には栄郡王に昇封された。嘉慶帝は年齢が自分とあまり変わらない(嘉慶帝は綿億と4歳差であった)この甥を大いに厚遇した。
しかし嘉慶11年(1806年)、綿億が二人の子に名を付ける際、禁忌である金偏を使用したことを理由に嘉慶帝の叱責を受け、「近親らしくなく、かえって疎遠の者と同じである」とされ、乾清門から退出させられ外廷勤務を命じられた。さらに領侍衛内大臣や管園大臣などの職も罷免された。
その後、綿億は二人の子の名を糸偏の字に改めた。
嘉慶18年(1813年)、京城で癸酉の変が起こった際、綿億は一部の王公が無関心である様子を見て厳然として言った。
「皇上とは我らにとっていかなる存在か。たとえ親族の情から言っても、当然ながらその憂いを分かち合うべきである。まして万乗の尊たる君主においてはなおさらである。」
さらに綿億は、嘉慶帝に対して早急に京師へ帰還し人心を安定させるよう強く願い出た。
その勇気と剛直さは嘉慶帝に賞賛され、見直されることとなり、官職はほどなく回復されただけでなく、以後はいっそう寵愛と重用を受けた。
嘉慶帝はしばしば
「朕の甥の中で、骨肉の情を持つのは綿億ただ一人である」
と語ったという。
嘉慶20年3月5日(1815年)、父と同様に体が弱かった綿億は病により死去した。享年51。
諡は「恪」であった。