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線引き問題 (科学哲学)

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線引き問題(せんびきもんだい、: demarcation problem)あるいは境界設定問題とは、科学哲学の世界で使われる言葉で、科学と非科学または疑似科学との間の線引きを「どこで」そして「どのようにするのか」という問題のことを指す。歴史的に、科学とそうでないものの間に線を引こうと、様々な線引きの基準が提出されてきたが、しかしそのどれもが成功している状況ではない。2012年以降は、IUT理論などの、似ているようでまったく新しい体系の数学世界を1から作る、見方によっては「疑似数学」とも捉えられる分野も新興してきているが、こちらは科学の問題とは別の問題になるため本記事では扱わない。

意味の検証可能性テーゼ

線引きの基準として歴史的に最も有名なものの一つに、20世紀の初頭から中盤にかけて論理実証主義者たちが主張した「意味の検証可能性テーゼ」がある。「意味の検証可能性テーゼ」とは、「有意味な命題はすべて経験的に検証可能でなければならない」[1]というものである。

論理実証主義者たちが攻撃の対象とし想定していたのは、哲学の一分野である形而上学などで見られる主張である(たとえばマルティン・ハイデッガーの文章など)。つまりハイデッガーのような形而上学者たちが行う主張は、正しいとか間違ってるとかではなく、そもそも真偽を確認する方法が無いのだから、何も意味が無い、つまり無意味なのだ、とした。

こうして論理実証主義者たちは「検証」という条件を用いて、科学とそうでないものの峻別を行おうとした。しかしこの立場はその後、数多くの理論的困難に出会い頓挫することになった(たとえば「検証できない文は無意味だ」という文の真偽はどうやって検証するのか、など)。

反証可能性

また、もう一つの有名な線引きの基準としてカール・ポパーによって提出された反証可能性の概念がある。ポパーは、反証ができない理論、つまりこの理論は間違っているという証拠を提出することができないような理論は、そもそも科学ではないとした。ポパーがこの概念により線引きを行おうとしていたのは、科学と疑似科学であり、その疑似科学というのは、共産主義マルクス主義経済学)、および当時の(フロイト流の)精神分析学などである。[注釈 1]

例えば、仮説や数学的正しさとしてのモデルとしては美しいとされる「超弦理論」や「超対称性理論」は、統一理論の候補として期待されているが、理論の前提が現実に即していない部分や検証可能性が低いことから、超弦理論は科学であるかどうか議論がある。超弦理論はどんな実験結果が出ても理論を書き換えて言い訳できてしまうため、「間違えることすらできない(=科学の土台に上がっていない)」という強烈な批判がある。[3]また、宇宙膨張モデルと、時空以外の物質縮小モデルは相互で数学的等価であるとされるが、後者は多くの設定や定規変化が必要であるため、より現実的な宇宙膨張モデルが理論、観測としても正しいと見積もられている。しかし後者の可能性を仮説として提示すること自体は疑似科学ではないクオリアの正体について議論する場合も同じであると考えらえる。科学の土台に上がっていなくても、仮説を出すことや何について論じているかを突き詰めていく過程自体は重要である。

1895年、流体物理学者のウィリアム・トムソンは、1903年に航空機が実証される前、「空気より重い機械による飛行は不可能である」という趣旨の手紙や、航空技術への懐疑的意見を残していた。それらは妄想や疑似科学の類だと高名な科学者によっても批判される対象であった。しかし実験によって間違っていることが後に判明した。科学の考え方や知識重視は、できない理由を先に発見してしまうことにより、工学の可能性を狭めていた可能性がある。

検証主義

「観測にも実験にも一切差を生まない主張は、真偽を問うこと自体が無意味だ」という考え方は、検証主義(logical positivism)の核心的な立場そのものである。かつてウィーン学団A・J・エイヤーが突き詰めた。[4][5]ポパーの反証可能性の議論もこれに近く、原理的にテストできない主張は科学の対象外とされてしまう。この立場の場合、極端な例を取ると「何とも相互作用しない存在は実質的に「存在しない」と同じ扱い」になる。オッカムの剃刀的にも、何の説明力も持たない存在を仮定するのは無駄ということになる。これに対する反論もある。カントは「物自体」つまり我々が知覚できる現象の背後にある、認識不可能な"本当の実在"を想定した。つまり「知りえない」ことと「存在しない」ことは論理的には別問題で、認識論的限界を存在論の話にすり替えるのは飛躍ではないかと提起した。[6]意味がない存在と言い切れるのは検証主義の立場に立った場合であり、「存在はしているが我々には永遠にアクセスできないだけ」という実在論的な立場も、哲学的には決して非合理ではない。[7]

線引き問題のその後

ラリー・ラウダンは「線引き問題の逝去」という文章[8]の中で、科学の必要十分条件必要条件かつ十分条件)を与えることは不可能であり、科学と疑似科学の間の線引きなどできないと論じている[9]。これは1983年の論文であり、反証可能性の概念はあまり機能していないことがわかり、以降は科学哲学では線引き問題はあまり論じられなくなった[10]

哲学者らは「本来の科学とは何か」を追い求め、科学が自然哲学と呼ばれてきた時代から、議論し考察して来たし、現在まで続いている。2020年以降のCOVID-19関連や気候問題を筆頭とする陰謀論などの拡散により、政策決定者、司法関係、教育者、そして一般市民が”何が科学的根拠に基づいているか”を実務的に判断できる明確なツール(チェックリスト)が今すぐ必要だという切実な社会的要請が生まれ、線引き問題が再燃した。ダミアン・フェルナンデス=ベアナートは、この問題は未解決であるとしつつも、暫定的に「科学の範囲を狭く限定しすぎない立場を支持」するような論陣を張り、単一の必要十分条件を探すという従来のアプローチ自体を放棄し、複数の指標を総合判断する実務的な手続きへと発想を転換することで、"使える"線引きを提供できる立ち位置を論文で提示した。[11]

ベアナードの論文は以下で構成されている

  1. 過去の哲学者たちが「これさえ満たせば科学」という単一の基準を探してきた歴史、あるいは「複数の基準を組み合わせよう」という発想等を振り返り、一つずつ不完全な点を探る
    • 例えばポパーの反証可能性だけでは、科学と呼びたくないものまで科学に含めてしまったり、逆に科学と呼べるものまでを排除してしまったりする
    • 例えばBungeの却下論(1982)[12]では、うまくいっているかどうかだけを基準にしてしまうと、まだ結果の出ていない若い科学分野を除外してしまう
  2. ラウダンの結論は早すぎたと考え、Mahnerが提案していたアイデア[13]を土台に、次のような実行可能な手順を組み立てる
    • 科学らしさを示す特徴のリストを大量に作る(例:予測ができる、方法が体系的、専門家による検証があるなど)。リストの1つ1つの項目は、単独では必要でも十分でもない弱い条件でよい。
    • 実際に「誰もが科学だと認める分野」と「誰もが非科学だと認めるもの」を比較材料にして、この点数以上あれば科学と認めるというカットオフを統計的・比較的に決める。
    • 科学と非科学の区別だけでなく、自然科学・社会科学・形式科学といったジャンル同士の区別にも同じ仕組みが使えるようにする。
  3. 線引きには実は2種類あると整理する
    • 認識的正当性による線引き(その分野は、信頼できる知識をどれだけ生み出せるかという中身の質で判定する)
    • 領域的な線引き

著者は論文内で、線引き問題が終わったと宣言されたのは、試みられた提案が不十分だっただけであり、複数基準方式の可能性に対して悲観的すぎたからだと結論づけている。上記2の手順について、ある分野が「科学的な特徴を60%持ち、非科学的な特徴を40%持つ」というような、白黒つけがたいグレーな判定になる可能性も認めた上で、それでも実用上は許容できる弱点だとしている。

脚注

参考文献

外部リンク

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