繆大亨
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はじめは元の義兵軍を率いていた。
至正14年(1354年)7月、濠州を攻めていたが勝てず、元軍は敗れた。張知院と共に2万の兵で横澗山に籠った。朱元璋は夜襲で横澗山を攻めることを考えた。朱元璋の命を受けた花雲の夜襲により、繆大亨は息子と共に敗走したが、散り散りになった兵を集め、再編して迎撃の態勢をとった。朱元璋は説得のために叔父の繆貞を使者に送った。繆貞の説得に繆大亨は朱元璋に降伏した[1]。
数々の戦いに参加し、多くの功績を上げて、元帥に抜擢された。
至正17年(1357年)9月、揚州を攻略し、青軍元帥の張明鑒を降した。戦いの前、繆大亨は朱元璋に「賊は飢餓に困り、食糧の掠奪に奔れば、これを治めるのは難しくなります。彼らの勇猛さを用いて、我が軍に加えるべきです」と言った。これを容れた朱元璋は繆大亨に速やかに攻めるよう命じた。張明鑒を降し、数万の兵、軍馬2千余を得た。その後、張明鑒の将校の妻子を応天府に悉く送った。
至正20年(1360年)3月、淮海翼元帥府が江南分枢密院に改められ、繆大亨は同僉枢密院事となり、揚州・鎮江を統括した。善政を行い、民衆はこれを喜んだ。
至正23年(1363年)に亡くなった。