羅周敬
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
羅紹威の三男として生まれた。幼くして聡明で、8歳で『詩経』を学んだ。検校礼部員外郎を初任とした。後梁の乾化4年(914年)、兄の羅周翰が死去すると、周敬はその後を嗣いで、宣義軍節度留後となった。ほどなく正式に宣義軍節度使(唐の義成軍節度使)に任じられた。ほどなく匡国軍節度使(唐の忠武軍節度使)に転じ、検校尚書左僕射を加えられた[4][5]。貞明4年(918年)、開封府に召還されて検校司空・殿中監・駙馬都尉となり[6]、末帝の娘の普安公主を妻に迎えた。まもなく光禄寺卿に転じた[7]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が即位すると、周敬は右金吾衛大将軍を歴任した。かつて羅紹威が洛陽の福善里に邸を建てており、周敬はこれを相続していた。荘宗が洛陽に入ると、趙巌の邸を李嗣源に与えたが、参内に不便であったため、李嗣源は周敬の邸を求めた。周敬はこれを承諾した[7]。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、周敬は右金吾衛大将軍に任じられた[8]。天成3年(928年)、同州節度使として出向し[9]、検校太保を加えられた[7]。長興元年(930年)、入朝して右監門衛上将軍となった[10]。長興2年(931年)、右領軍衛上将軍に転じた[11]。長興3年(932年)、右威衛上将軍に任じられた[12]。長興4年(933年)、右驍衛上将軍から左羽林軍統軍となった[13]。
後晋の天福2年(937年)、周敬は右金吾衛上将軍となった[14]。この年のうちに死去した。享年は32。太傅の位を追贈された[7][5]。