1982年(昭和57年)10月に二代目旭琉会会長が内部抗争で射殺され、旭琉会は照屋正吉会長代行により運営[1]。1983年(昭和58年)1月、翁長良宏は、照屋正吉から会長代行を受け継いだ[1]。
同1983年(昭和58年)、三代目旭琉会会長に就任[2]。
数年のうちは平和が保たれたが、1990年(平成2年)に理事長・富永清(富永一家総長)派との対立が表面化。いったんは収拾が図られたものの僅か4ヵ月後の同年9月、富永清派が脱退して「沖縄旭琉会」を結成したことにより、組事務所の外装工事を行っていたアルバイトの高校生や警戒中の警官2人が巻き添えになって射殺されるなどの熾烈な『第6次沖縄抗争』を、1992年(平成4年)に双方が終結宣言を出すまで繰り広げることとなった。
この抗争も要因となって1991年(平成3年)に「暴力団対策法」が制定され、施行直後の1992年6月に三代目旭琉会が「沖縄旭琉会」と共に指定暴力団に指定されるなどしたため、以後は目立った抗争もなく両組織の並存を保った。
1970年代に激しく争った山口組とも良好な関係を築き、1985年(昭和60年)1月には暗殺される直前の四代目山口組組長・竹中正久の表敬訪問を受け、五代目山口組(組長・渡辺芳則)の頃には親戚団体の一つにも数えられるようになった。
2010年(平成22年)7月6日に旭琉会の会長を退き引退[3]、三代目体制下の理事長であった花城松一に跡目を譲った[2]。四代目の後見人は、沖縄旭琉会富永清会長[3]。
2017年(平成29年)6月29日、肺炎のため死去[4]。