翟光鄴
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翟景珂の子として生まれた。後梁の貞明2年(916年)、父が永定駅を守って戦没すると、光鄴は李嗣源の軍に捕らえられた。賢く頭の回転が速かったことから、李嗣源に近侍して、永定と呼ばれた。冠礼を受けると、沈着剛毅で謀略があり、仕事に過ちは少なかった。後唐の天成元年(926年)、明宗李嗣源が即位すると、光鄴は信任を受けて、皇城使・検校司空に累進した。長興2年(931年)、枢密使の安重誨を誅殺するにあたって、光鄴は宦官の孟小僧とともに尽力した。ほどなく耀州団練使として出向した。清泰元年(934年)、入朝して左監門衛大将軍となった[1][2]。
後晋の天福年間、光鄴は棣州刺史・沂州刺史・西都副留守を歴任した[1][2]。開運元年(944年)、宣徽北院使に任じられた[3]。平盧節度使の楊光遠が反乱を起こして滅び、青州が平定されると、光鄴は青州防禦使に転じた。開運4年(947年)、遼が開封府に入ると、光鄴は知曹州軍州事を命じられた。遼の太宗が北帰し、李従益が知南朝軍国事となると、光鄴は明宗の旧臣だったことから枢密使に任じられた[4][2]。
天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠が開封府に入ると、光鄴は左領軍衛大将軍[注釈 1]に転じた。乾祐元年(948年)、右金吾衛大将軍[注釈 2]となり、検校太保をつとめた[5]。
後周の広順元年(951年)2月、光鄴は宣徽北院使・左千牛衛上将軍・検校太傅に任じられた[6][5]。6月、枢密副使を兼ねた[7]。広順2年(952年)3月、永興軍節度使の李洪信が入朝すると、光鄴は代わって知京兆府軍府事をつとめた[8][5]。10月12日、長安で死去した。享年は46[5]。