『遼史』(巻六十四・表第二)
敏給(耶律只没)は学問を好み、契丹文字と漢字に通じ、詩を作ることに巧みであった。應暦年間の末、宮人と密通したため、皇帝(遼穆宗)が激怒し、数百回にわたり鞭打たれ、一方の目を刺されて宮刑に処され、獄に繋がれ、市において処刑されるところであった。
しかし景宗が即位すると釈放され、密通していた宮人を与えられ、寧王に封じられた。保寧八年、妻が鴆毒を造ったため爵位を奪われ、烏古部に流された。その際に「放鶴詩」を賦したので、召し戻された。
統和元年、皇太后が垂簾聴政した際、皇太后の命に応じて「移芍薬詩」を賦し、勅命により旧爵に復された。
詩作としては『移芍薬詩』『放鶴詩』が伝わる。