伊都は中村の鍛冶屋清兵衛の四女として生まれたと伝えられ、秀吉の母大政所とは従姉妹、あるいは縁戚とする説がある。若いころから信仰心が篤く、病身の夫・清忠との間に子を授からなかったため、北辰妙見に「妙法華経の功徳をもって一子を授けたまえ」と祈願し、毘沙門堂へ57日間参籠したと伝わる。
日光尼は信仰心が強く、周囲の火災の中で入浴中の祖母を浴槽ごと抱えて救い出した逸話が残るなど、気丈な女性であったという。その影響を受け、清正が法華経に深く帰依するようになったともされる。
天正2年(1574年)、伊都は息子清正を伴って近江長浜へ赴き、以後も清正の成長を支えた。天正19年(1591年)、清正は難波の瑞龍院を熊本城三ノ丸に移して本妙寺と改称した際、伊都は髪を下ろして「天室日光尼」と号し、祖先供養と夫の冥福、清正の武運長久を祈る出家生活に入った。
清正の肥後国入部後、慶長5年(1600年)5月18日、日光尼は68歳で死去した。法号は「聖林院殿天室日光大尊尼」。死去の際には本妙寺開基の日真上人が誦経した。日真は生前の縁により後に後述の妙永寺へ移された。
慶長5年は関ヶ原の戦いの年であったため、清正は十分に母の供養ができなかったといい、3回忌に熊本市内へ妙永寺(寿福山智雄院)を建立して母の菩提寺とした。