聖母マリア柱像 (プラハ)
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| チェコ語: Mariánský sloup | |
旧市街広場に建て直された柱像 | |
| 作者 | ヨハン・ゲオルク・ベンドル |
|---|---|
| 製作年 | 1650年 - 1918年, 2020年 |
| 所蔵 | チェコ、プラハ |
| 座標: 北緯50度5分14.28秒 東経14度25分16.50秒 / 北緯50.0873000度 東経14.4212500度 | |
聖母マリア柱像 (チェコ語:Mariánský sloup) は、チェコ・プラハの旧市街広場に位置する聖母マリアの像を頂く柱からなる宗教的記念物である。元々は三十年戦争終結直後の1650年に建てられたが、1918年11月にオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と同時期に取り壊された[1]。それからおよそ100年の時を経て再建され、2020年8月15日に完成した[2][3][4]。


プラハにおける聖母マリア柱像は、三十年戦争末期の1648年に起きたプラハの戦いでボヘミアがスウェーデン帝国に勝利したことを祝して旧市街広場に建てられた[5]。柱像はヨハン・ゲオルク・ベンドルによって彫刻された。ヨーロッパにおいてはローマ(1614年)、ミュンヘン(1638年)、ウィーン(1647年)に次いで4番目に古いマリア柱像である[6]。
柱の高さは約16mで、そこに金箔を施した約2mのマリア像が立っていた。柱の基部には礼拝堂として使われる空間が広がっていた。内部には15世紀初頭に「広場の聖母マリア」(Panna Marie Rynecká) の像が描かれたゴシック様式のパネルがあった。柱の隅には悪と戦う4柱の天使像が4体立っていた。最初の天使は槍で悪魔を打ち倒す知恵を象徴し、2番目の天使は両手剣でライオンを打ち倒す正義を象徴し、3番目の天使はドラゴンと戦う勇気を象徴し、最後の天使は十字架で悪魔を打ち倒す優しさを象徴していた。
1757年のプラハ包囲戦では、砲撃によっていくつかの像が損傷した。これらは1858年になってようやく修復された。
破壊

1915年、ラディスラフ・シャローンによって彫刻されたヤン・フス記念碑が広場に建立された。フスはフス派と呼ばれるプロテスタント以前の宗教改革勢力の創始者ともいえる人物で、カトリック教会によって異端の罪で処刑された。記念碑の建立は、プラハの街がカトリック教会から離れていく様子を表していると考えられた。
1918年秋、オーストリア・ハンガリー帝国が第一次世界大戦での敗北寸前で解体され、チェコスロバキアが独立した。この状況の中で1918年11月3日、絶対王政とカトリックの象徴とされた柱像は取り壊された[7][8]。
チェコスロバキアのメディアなどでは、この破壊は比較的理解され受け入れられた。多くの政治家も建前上は破壊を支持しなかったものの、内心では理解を示した。イギリスでこの破壊を知ったトマーシュ・マサリクは、「プラハの人々が像を破壊したことは嬉しかった。像は我々にとって政治的に恥ずべきものだったからだ」と述べている[9]。
残っていた部分も1918年12月18日から19日にかけて取り外され、旧市街の聖アンナ教会の中庭に運ばれた。聖母マリア像の断片、天使を描いた4体の彫刻、石の手すりはヴィスタヴィシュチェにあるラピダリウムに保管された。1957年、ナーロドニー・トリーダのアンティークショップで聖母マリア像の折れた頭部が発見された。これらは国立博物館によって購入されラピダリウムにも所蔵された。1673年にベンドルによって制作されたものとほぼ同一の像がラウニーに置かれている。
対立と準備
1990年、プラハでマリア柱像の修復を目的とした民間団体が組織され、1995年からチェコの芸術家たちによって修復作業が開始された。2000年、ペトル・ヴァーナが像の頭部のレプリカ制作を依頼され、2002年に完成。プラハの聖母教会 (Chrám Matky Boží před Týnem) の庭に設置された。
柱像の再建は過去何度も拒否されており、2017年にも市議会議員が、プラハの人々の融和ではなく分断につながるとして拒否された[10]。再建反対派は、この柱を白山の戦い以降のカトリックやハプスブルク家による抑圧の象徴と主張している。プラハ市長ズデニェク・フジブも、「これはある目的のために他の理念を犠牲にしている」とした[11]。
2019年にも再建に関して警察などを含めたいざこざが起きたが[12]、2020年にプラハ市議会によって再建が承認された[13]。