1958年、熊本大学の喜田村正次教授が水俣湾周辺で心身に異常を持つ乳児が次々に生まれているとの報告を行った。水俣病多発地区では1955年以降、乳児の脳性マヒ様の症状の発生率は9%に達していた。1961年5月、熊本大学の神経精神科教室(立津政順教授)においても原田正純を含む数人の若手医師の院生を水俣に派遣して水俣病に関する詳細な臨床疫学的調査に着手、さらに翌1962年には上記乳児の脳性麻痺様の症状の正体も究明することになり、原田がこれを担当することとなって、一軒一軒患者の家を訪れ診察の結果、胎児中に胎盤を通して有機水銀中毒を起こしたものとの結論が出された[2][3][4]。