1985年に佐藤は外務省に入省。チェコ語とチェコ神学を勉強する目的だった。ロシア語の研修のためにイギリスへ留学。
[注 1]
1987年にモスクワへ赴任し、モスクワ国立大学言語学部に研修留学。哲学部科学的無神論学科のサーシャと出会う。
(この前年からゴルバチョフの「ペレストロイカ(立て直し)」が始まっていた。)
1988年、ソ連大使館の政務班に配属。新聞や雑誌の整理係をした。アゼルバイジャンとアルメニア間の紛争に注目し、民族問題の担当官になった。
1989年、サーシャの誘いでラトビア首都のリガへ行き一泊。サーシャはバルト3国の独立を計画していた。
モスクワにある反体制派のアジトをサーシャに教えられ、その人脈ができる。
ポローシンはサーシャから紹介された反体制派。1989年にロシア人民代議員になり、エリツィンの側近になった。
1990年、手紙を出してリトアニア共産党のブラジスラフ・シュベードと面会。そのつてでソ連のヤナーエフ副大統領にも会った。
1991年1月、リトアニアの首都ビリニュスで血の日曜日事件 (リトアニア)。佐藤はリトアニア共産党中央委員会とリトアニア外務省との連絡をした。
1991年8月19日朝、ゴルバチョフが病気で執務不能というニュースが流れる。ソ連8月クーデター。佐藤は人脈を駆使して情報を収集。