興元寺
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歴史
織豊期
天正2年(1574年)7月、毛利氏家臣で周防国都濃郡野上(後の徳山)の領主である杉元相が、同地の浄福寺全伯に依頼し、杉氏の菩提寺として建立した[1]。龍文寺8世の隆室智丘が名義上の開山とされてるが、実際には龍文寺10世の海翁去巨を開山としている[1]。
天正8年(1580年)10月6日、杉元相・元宣父子が3町分の段銭[注釈 1]を興元寺に寄進する[2]。また、年不詳1月11日の杉元相の寄進状では、菩提所として一宇を建て、寺領として周防国佐波郡植松村の10石の地と、祠堂米30石を寄進している[3]。
天正13年(1585年)に杉元相が病死し、天正17年(1589年)に元相の子の杉元宣が不慮の死を遂げた[1]。杉元相・元宣父子は共に興元寺に葬られ、現在も興元寺の境内に両者の墓が現存している[注釈 2][5]。
慶長4年(1599年)、毛利輝元は杉元相・元宣父子の冥福を弔うため、興元寺の寺領を安堵した[1]。また、慶長5年(1600年)に開山の海翁去巨が死去したため、輝元は丁重に弔っている[1]。
江戸期
元禄5年(1692年)、徳山藩3代藩主・毛利元次は興元寺の寺領20石を加増して50石とした[1]。
正徳5年(1715年)の万役山事件により、正徳6年(1716年)に徳山藩が改易された際の徳山藩再興運動に興元寺の伴僧である恵周坊が参加し、功労者として名を連ねている[6]。
近現代
明治初年に徳山において神社や寺院の整理が行われることとなり、明治3年(1870年)11月にはそのための基礎調査として「徳山藩諸宗寺院書上」が作成された[7]。明治4年(1871年)4月には宗派ごとに本刹・本院を構える方針が打ち出され、曹洞宗の本刹として興元寺が指定されている[注釈 3][7]。