商家の生まれで、梅毒の研究や治療、医学を学ぶために長崎、京都、大阪を渡り歩き、水銀による治療薬の開発を行った[1]。
その後、天保年間には大阪・船場に梅毒専門を開業した[1]。
梅毒専門医師となったきっかけとして、梅毒に罹った父を29歳で、母を44歳で亡くしており、自身も梅毒に苦しみ、水銀の治療薬によって回復することができたためと語っている[4]。
また、接種実験の為に梅毒に感染した遊女と交わったことがある。性交の一ヶ月後、梅毒に罹患したが、自身で開発した治療薬「延寿丸」を摂取し完治したと記している[5]。これが事実であるならば、梅毒に二度罹患し、二度完治したということになる。
このような梅毒の経験や症例、治療法をまとめた書籍を出版し、庶民の啓発へと繋げた[1][注釈 1]。著書内では「延寿丸」の宣伝も行なっていた[6]。