色川秀足は紀伊国の地侍で、天正13年(1585年)に豊臣秀長に仕えたのち、豊臣秀吉に仕えて724石を安堵された。
『那智勝浦町史』によれば、汐崎重幹所蔵の「色川三九郎秀でたる由来の事」の一書に、色川三九郎秀足は田辺市西ノ谷(西ノ谷)の豪族・大野定珍の三男三郎で、兄・孫九郎の跡を継いで家督を相続したとされる。色川の七村の代表として太閤御礼勤を務め、仲間七人の代官を任じられた。天正18-19年(1590年ごろ)、藤堂高虎の指揮による朝鮮出兵に際して、新宮川原で船百艘の建造に従事し、組頭として朝鮮に渡航した。帰国後、色川二十四ヶ村724石の地を与えられ、秀吉から朱印状を賜ったという。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し没落するが、のち浅野氏に仕え、元和元年(1615年)に浅野家が安芸へ移封されると、浅野右近忠吉に従って安芸に赴いた。のちに辞して帰国し、徳川頼宣の紀州入国に際しては家老水野出雲守の与力として出仕し、150石を与えられた。