若尾幾造 (2代)
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湘南社と頌徳碑
甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡、現南アルプス市在家塚)で、初代若尾幾造の長男として生まれる[1][3]。
家業の生糸貿易業に従事し、1896年(明治29年)に家督を相続し幾造(2代)と改名した[4][5]。神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)と埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)に生繭乾燥所を、また、高座郡鵠沼村(現:藤沢市)に製糸機械場、同郡明治村(現:藤沢市)に第二製糸場を設置して良質の生糸を製造し、海外に本邦蚕糸の優秀性を示して輸出の拡大に貢献した[3][4]。その他、神奈川県蚕糸貿易商同業組合長、横浜蚕糸外四品取引所理事長、若尾銀行頭取、横浜電線製造取締役、横浜火災海上運送信用保険取締役、東京電燈取締役、日本鉄道取締役、京浜電気鉄道取締役、帝国ホテル取締役、横浜倉庫取締役、東洋モスリン取締役、日清紡績取締役、横浜電気取締役、東洋汽船監査役、横浜生命保険監査役、東亜製粉監査役、京浜電力取締役社長などを務めた[2][6]。
また、横浜市参事会員、同瓦斯局長、同参与、同瓦斯常設委員長、横浜商業会議所常議員、生糸検査所臨時商議員、蚕業諮問会員などを歴任[2]。1905年(明治38年)8月17日、貴族院多額納税者議員に就任[7]し、1906年(明治39年)7月6日に辞職した[8][9]。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で(神奈川県横浜市選挙区、立憲政友会所属)当選[2]。その後、第13回、第14回総選挙でも再選され、衆議院議員を通算3期務めた[2]。
1883年(明治16年)から84年頃にかけて、養蚕と器械製糸の「湘南社」を設立し、そののち1893年(明治26年)に持田角左衛門とともに生糸共同販売団体の「盛進社」の設立[10]や、横浜若尾銀行藤沢支店の設立に関わった[11]。この幾造の藤沢・高座郡域における養蚕業の貢献を顕彰して1914年(大正3年)に高さ661cm[12]の頌徳碑が建立された[13]。この頌徳碑は遊行寺境内にあったが、2000年ごろに破壊され、現形をとどめていない[13]。
(銘)
— 記念碑「若尾幾造君頌徳碑」、藤沢市文化財総合調査報告書 第9集 (補遺 2) [12]
若尾君幾造頌徳碑 正二位勲一等候爵西園寺公望篆額
(上部)若尾 幾造 君頌 徳碑
明治維新専奨励殖産興業海内諸州争製出産物况相模之為州西負連山東北接平野南臨
大洋気温度腴宜大出産物而不然者為無有力者誘導之也十六七年之交州之紳士有慨之
謀横濱豪商若尾君受指導為養蠶製絲設湘南社不幸末欠而廢社員有持田角左衛門者獨
力營業百折不墝遂用器械型絲君感其篤志謂是可以假力二十六年糾合同志興盛進社於
藤澤置橫濱若尾銀行支店貸資金築乾燥室貯生繭又屢捐資褒賞社員及工女於是絲質日
精良生額亦月増加遂輸出海外至興海内諸州角碓三十六年君進本社為共同販賣組合自
為其長与外商約豫賣又著書論桑園改善多方盡心致今日之隆盛是實君誘導扶助之力而
不負國家獎励之旨項者社員胥謀欲建大碑頌君功徳請余銘君名幾造為人寛厚温和持己
儉素為人謀而忠不吝財貨平生業貿易自建銀行兼任数十會社重職三十七八年之役以功
労叙勲五等賜兼貴族院議員現衆議院議員銘曰
自殖大産 除 人 忠謀善導 扶助郷紳 養蠶製絲 産業日振 内富黎庶
澤遍湘濱 外豉輸出 國力大伸 爱頌功徳 永勤貞珉
大正二年六月 從三位勲二等文學博士三島毅譔 井亀泉刻
正三位 日下部東作書
(碑前面)
大正十二年九月震災ノ為倒壊シタルヲ以テ此處ニ
之ヲ修築ス 現ニ若尾幾造君ハ正六位勲四等タリ
大正十三年十一月 (碑左側面)
頌徳碑建設産賛者芳名
(12段合計467名)
大正三年十一月建之 (碑背面)

